【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第22話
第22話
収録が済み、楽屋に戻る。スマホを開くが、なにも届いていなかった。
空の弁当をゴミ箱に捨て、脇に置いておいた弁当をリュックに詰め込んだ。保奈美のために余分にもらっておいたものだ。
もう冷めていた。けれどもここの弁当は冷めても美味しい。
今日の仕事は深夜番組のスタジオ収録だった。今年の初めに出演した、創の仕事が急増する最初のきっかけになった番組だ。
セクシー女優からどんなに迫られても、平常心を保ちながら与えられたミッションをこなすという企画で、創は相手に合わせてリアクションを取りながら、心の中では複雑な思いを抱えていた。
もしこれを保奈美に見られたら。そう考えた時は本気で固まってしまい、それがリアルな動揺だと思われ、逆にウケたのでホッとした。
──よりによってこんな時にな……。
スタジオを後にしながら、今日の昼のことを思い出す。幸田久子の所属していた渋谷のAVの事務所で偶然知り合ったのは、多岐川啓子という名の女性弁護士だった。
「この事務所って、ヤバいところなんですか?」
創の質問に、多岐川が不審そうに眉をひそめる。
「あー、俺の知り合いの女の子が、あの事務所に誘われたけど迷ってるって言うてて」
出まかせを言った。多岐川が背筋を伸ばして首を振り、
「あの事務所は非正規で、きちんとした手続きがなされないまま作られた作品がいくつもあります。被害者のうちの一人からご相談を受けております」
と教えてくれた。
「あの、その被害者の中に『風・信子』って人おりますか」
ダメ元のつもりで聞いてみる。「本名は幸田久子っちゅうんですけど……」
「幸田久子?」
多岐川が目を瞠る。創は飛び上がった。
「知ってはるんですか?」
ぐっと身を乗り出す創と保奈美に対して、多岐川は辺りを気にするように声を潜めた。
「ここではちょっと……」
白い鉄の扉をちらりと振り返り、三人で雑居ビルを後にした。近くの喫茶店に場所を移す。
「こちらこそお聞きしたいです。幸田久子さんをご存じなんですか?」
コーヒーが運ばれてから、多岐川が質問する。
「実はこの子のお姉さんがその女性と一緒に住んどったんですが、連絡が取れへんで困ってるんです。ほんで───」
創が言い終わらないうちに、多岐川が驚いたように保奈美に顔を向けた。
「ということは、ひょっとしたらあなたのお姉さんは一条かれんさんですか?」
創と保奈美は目を瞠った。
「姉をご存じなんですか?」
保奈美が腰を浮かさんばかりに尋ねる。
「ご連絡が取れなくなり、わたしも心配していたんです」
多岐川はそう言って、保奈美の顔を眺めた。
「そう、妹さんですか……」
「なんで二人を知っとるんですか」
創の頭の中で、なにかが引っ掛かっていた。幸田久子と一条かれんが弁護士になんの用があったのか。嫌な予感が胸に広がる。
「それは言えません。守秘義務ですから……」
多岐川の口調は冷たい拒絶ではなかった。ためらうように口元を結んでいる。
「守秘義務っちゅうことは、仕事ですよね」
創が重ねて尋ねる。
「依頼を受けたっちゅうことですか。幸田久子から? それとも一条かれんから?」
多岐川は小さく首を振った。
「依頼まではいっていません。ご相談を受けただけです」
「相談……」
おうむ返しに呟く。その時、創の頭の中でなにかがひらめいた。
「わかった……」
保奈美が不思議そうな顔を向ける。創は片手で顔を覆った。
「あのおっさん、どこで見たんか思い出した」
創の脳裏に、神園おうかの顔が思い浮かんだ。春先のことだ。深夜、創がコンビニへ向かうためにアパートを出たところで、一組の男女とすれ違った。若い女性と中年の男性がアパートの階段を上っていく。その男の方が神園おうかだった。
コンビニから戻り、しばらくすると天井からギシギシと音がしてきた。テレビを消し、耳を澄ませていると、女性のか細い泣き声のようなものが響いてきた。
『ダメダメ、もっと声を出して』
壁に耳をつけると、そんな声まで聞こえてきた。
創の頭の中で、これまで断片的に存在していたものがつながりを持ってくる。
天井から聞こえた音と女性たちの泣き声。幸田久子と一条かれんによる弁護士への相談。嘘をつく助監督。一条かれんが参加した神園おうかの映画のワークショップ───。
「まさか……」
創が口にした仮説を、多岐川は否定しなかった───。
「ただいま」
創はアパートのドアを開けた。保奈美がこちらを振り返る。そのこわばった表情を、創は直視できずに目を反らした。
「ちゃんと帰れたんやな。何度か連絡したんやけど、返信なかったから心配したんやで」
多岐川と喫茶店で別れた後、スタジオの入り時間まで余裕がなかったので、保奈美とは近くの駅で別れた。青い顔をした保奈美が心配で、楽屋に入ってから何度もメッセージを送った。
「これな、余った弁当なんやけど、保奈美ちゃんにって、もろてきた」
リュックの中から取り出し、保奈美に差し出す。
「むっちゃうまいで。食べ」
保奈美は静かに首を振った。
「なんか食うたか?」
創の問いに、保奈美は黙ったままじっとうつむいている。その目が潤んでいた。
一条かれんが性被害に遭っていた。その答えにたどり着きながらも、頭のどこかでは間違いであってほしいと願った。けれども、多岐川の表情を見て確信を強めた。
保奈美は青ざめて黙り込んだ。そのまま、駅で創と別れる時も、目に涙を浮かべたままじっと足元を見ていた───。
「ほな、明日食べや。もう寝た方がええよ。疲れてるんやから」
創はことさら明るい声で言い、弁当を冷蔵庫に入れた。保奈美は唇を噛みしめたまま、じっと座っている。
「俺、風呂入るけど。保奈美ちゃん、まだやったら先に入っても」
昼間の服のままの保奈美にそう声をかけたが、黙って首を横に振る。
「先に入って、先に寝ててええよ」
「いいです」
保奈美が固い声で言った。
「さっぱりしたらよく眠れるで。汗かいて気持ち悪いやろ」
「いいです!」
叫んだ途端、保奈美の目から涙があふれた。嗚咽が漏れ、やがて泣き声に変わる。
創は両手を固く握りしめた。爪が食い込み、血が流れても、一条かれんや保奈美の傷みには全然足りない。
保奈美の泣き声を、ただ黙って受け止め続けることしかできなかった。
