【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第4話
第4話
大石の乗るタクシーを見送り、元木と矢崎と別れると、創は街の中心地から東に向かって歩いていった。店に入る時はなかったはずの月が、低い空にかかっている。満月には遠く、半月よりも少しだけ丸い。
月を見て思い出した。昨年の賞レース予選の前は、毎晩みっちりネタの練習を繰り返した。二人のアパートの中間にある公園で、外灯と月明りを頼りに、雨の日でも傘を差してやった。
絶対にいけるという手ごたえを感じていた。それなのに前回よりも結果が振るわなかった。まだあのショックから完全に立ち直れていないのかもしれない。
そういえば最近は洋太とちゃんとしたネタ合わせをしていない。劇場の本番前に、軽く確認するだけだ。
創がピンの仕事で忙しくなり始めてから、まだ半年ちょっとしか経っていない。それなのに、公園でネタ合わせをしていたのがずいぶんと昔のような気がする。
スマホを取り出し、画面を開いた。二人のやり取りを確認すると、「折り入って話したいんだけど、明日にでも時間取れる?」「夜ならええけど」「それじゃ駅前の喫茶店に八時で」という洋太の発信で終わっていた。芸人を辞めたいと申し渡された日だ。
歩きながらスマホをポケットにねじ込むと、妙に甲高い男の声が耳に飛び込んできた。
「ちょっとだけ。ほんの一分だから、んね? アタシはね、みぃんなの夢をかなえたいだけなの」
話し方に癖があり、癇に障った。
「これまでも声をかけられたことあるでしょう。あん、やっぱりね。その時は断っちゃったの。どうして?」
ちらりと目をやった。身体にぴったりしたTシャツとチノパンを身に着けた男が、身体をくねらせながら一人の女の子に迫っている。女の子は男の陰に隠れてよく見えない。
「ああー怖いよね。わかる。でもね、心配しないで。うちの会社はちゃんとしてるから。アイドルの初芝さなって知ってる?」
「わたし、芸能人になりたいわけじゃないんです。ただ、一条かれんに会いたいだけなんです」
創はふと足を止めた。グレーのブレザーとスカート姿が目に入る。スタジオの通用口の外の植え込みに座っていたあの女の子だ。
「ああ、かれんちゃんね」
男は両手を合わせた。「あの子はすごいわよね。そうなの、かれんちゃんに憧れてるの」
「ご存じなんですか?」
「もちろんよー」
小柄な身体に不釣り合いな大きなバッグを肩にかけたまま、女の子が男の言葉にぴんと背中を伸ばす。
「わたし、どうしても会いたいんです。会わせてもらえますか?」
「ああ、そうなのね。うん、ちょっと待ってね。今事務所に確認してあげる」
創は眉をひそめた。この男が胡散臭いのは間違いない。一条かれんと初芝さなは同じ事務所ではないし、そもそも男は「初芝さなって知ってる?」と言っただけだ。そのアイドルが自分の事務所に所属しているとは言っていない。
「今確認したんだけど、会わせてあげるからとにかく事務所にいらっしゃいって」
一分もかからないうちに電話を切り、男が言った。女の子を急かしながら歩き出す。その肩を掴んだ。
「おい、なにしてんねん」
男が驚いて飛び上がった。
「その子、どこに連れていく気や」
当惑した様子だった男は、
「田舎もんの家出少女を騙そうとすな」
という創の言葉に目を怒らせた。
「てめえ、関係ねえだろ。引っ込んでろ」
さっきとは打って変わり、ドスの効いた低い声を出す。女の子が身をすくませるのが見て取れた。
「あんた、芸能事務所のもんやって言うてたな。どこや。ちなみに俺はシマプロや」
創が所属事務所の名前を出すと、男は目を瞠った。旗色が悪いと感じたらしい。「てめえ、覚えとくからな」と捨て台詞を残し、足早に立ち去った。
心臓がばくばく言っていた。汗が噴き出る。女の子に目をやると、彼女もまた怯えたように口元を手で覆っていた。
「あんなあ、お嬢ちゃん。東京は怖いで。悪いこと言わんから、はよ家に帰りや」
女の子がへなへなと座り込む。
「おい、どないしたんや」
慌ててその肘を掴んだ。
「ごめんなさい、力が抜けてしまって」
通り過ぎていく人が二人をじろじろ見ている。創は女の子を引っ張り上げた。
「頼むから、しっかりしてくれや。俺が捕まるわ」
女の子は立ち上がり、「すみません」と頭を下げた。細すぎる足はいかにも頼りない。
「今日は朝からあまり食べていなくて……」
「だから、家に帰りって」
重ねて言うが、女の子はうなだれるだけだ。
「ほな、俺は行くからな」
女の子を置いて歩き出した。数歩進んだところで立ち止まる。
振り返ると、女の子は途方にくれた顔でじっと創を見ている。
「ああ、もう」
小さく息をつくと踵を返し、創は女の子の方へ戻っていった。
