【小説】忘れえぬ女(ひと) 最終章 第4話
第4話
闇の中から、すすり泣きが聞こえる。
「どこ……?」
暗く狭い廊下が先の方まで伸びている。手探りで進むが、電気のスイッチは見つからない。
廊下の先に、ぼんやりとした光が見えてきた。近づいていくにつれて、その光は左側にあるドアの隙間から漏れているのがわかった。すすり泣きもそこから聞こえてくる。
「誰、泣いてるのは」
声をかけながら進むが、返事はない。たどり着き、ドアを開いた。泣き声が大きくなる。
女の子が泣いていた。裸の肩が震えている。
「どうしたの、寒いの?」
女の子に近づいた時、足元でぴちゃんと音がした。冷たい感触が伝わる。思わず悲鳴を上げた。
そこは浴室だった。女の子はタイルの上で膝を抱え、顔を覆って泣いている。
「どうしてこんなとこで」
言いかけて気づいた。背後に誰かが立っている。
大きな身体は、暗い部屋の中で数倍にも見えた。こちらにむかって手を伸ばしてくる。
「いやあ!」
叫んだ途端に、身体がびくんと震えた。高いところから滑り落ちそうな感覚に、久子は慌てて空をつかんだ。身体がぐらりと揺れ、床に倒れ込む。肘を強く打ち付けた。
ぼやけていた視界が少しずつ焦点を合わせる。薄く積もったほこりが見えた。ベッドの下の床だ。
カーテンを閉め切っているが、外が明るくなっているのがわかる。時計を確かめ、久子は深くため息をついてうつ伏せになった。
今日は撮影の予定だったが、体調不良を伝えてキャンセルした。一昨日、神社で男から襲われかけたせいで、腕や足にいくつか痣ができていた。しかし原因はそこではない。痣はメイクで隠せるが、気持ちがついていかない。
あの後、『カフェ・モカクリーム』の女性店員に付き添われて警察へ行った。揃って警察で名を聞かれ、彼女が一条かれんという名前であることを知った。
二人で事件の詳細や男の特徴を伝えると、警察はストーカー事件として被害届を受理した。
「その男は知り合いですか」
警察の質問に、久子が首を横に振る。男の素性はわからないし、受け取った手紙は最初だけ読んだが、その後は封も開けずに捨てた。わずかに伝わってきたのは、どうやら久子をアニメか、または自分の頭の中だけにある世界の登場人物だと思い込んでいるということだった。
醜い悪役である久子を自分がやっつける。そんな勘違いの使命感を持ち、しつこくつけ狙っているのだ。
「防犯カメラの映像から相手を特定できたら、傷害容疑で逮捕しますが、軽傷を負わせたくらいでは、すぐに出てくるでしょうね……」
警察が難しい顔で言った。男は自分だけの理屈で動いており、他人の話が耳に入らない可能性がある。注意勧告をしても、再び狙われたら───。
それ以来、フラッシュバックが再発した。ベッドに入るのが怖くて、明るい部屋で座ったまま過ごしているうちに意識が落ち、怖い夢を見て目が覚める。それをずっと繰り返している。
洗面所で顔を洗った。髪の毛がぼさぼさになっている。ずっとシャワーを浴びていない。火事の後や、母が男を家に連れてきて住まわせた時と同じように、風呂に入れなくなった。入ることを想像しただけで、背筋に寒気が走ってしまう。
ふいにチャイムが鳴った。小さく叫んで飛び上がる。胸に手を当ててリビングに戻り、インターホンに応答した。
「幸田さん。すみません、一条です。あの、先日の……」
モニターに映ったのは一条かれんだった。警察からの帰り、青い顔をした久子をわざわざマンションまで送り届けてくれた。
「どうなさってるかなって思って。あの、これ、もしよかったら」
言いながら持っているものを掲げた。モニターになにか白いものが映ったが、なにかはわからない。
「どうぞ」
一階まで降りていく気持ちにはなれなかった。久子はオートロックの解錠ボタンを押した。しばらく待っていると、玄関ドアの外のチャイムが鳴った。
「急にごめんなさい。どうなさっているか気になって……それで、もしよかったら、これ……」
細く開けたドアの隙間から、一条かれんがそう言って頭を下げた。手にしていたのは、ラップにくるまれたサンドイッチだった。
「あ……ありがとうございます……」
空腹など感じていなかったはずなのに、サンドイッチを見た途端に胃がぐるりと動き出した。
「あの後、警察からなにか連絡ってあったんですか」
「いえ、なにも」
「そうですか……それじゃ、怖いですよね……」
かれんが眉をひそめた。腕に巻かれた白い包帯が目に入る。あの時に受けた傷だろう。
「あの、本当にありがとうございました……助けてくれて」
扉を開け放つと、久子は身体の前で両手を握り合わせ、頭を下げた。
「いえ、わたし、ただ無我夢中で」
かれんが慌てて手を振る。
「あの時、もし一条さんに助けてもらえなかったら、どうなっていたか」
カッターナイフを思い出した。想像しただけでもぞっとする。かれんは微笑むと、
「ご無事でよかったです」
と言って頭を下げた。久子も急いで頭を下げる。
「どうしても心配になって、突然押しかけてしまってごめんなさい」
かれんが久子の顔をじっと見た。恐ろし気に顔を歪めたりせず、こちらを気遣う表情にはなんの曇りもない。
「ひょっとして、あまりお食事なさっていないですか……?」
『家を知られているなら、引っ越した方がいいかもしれませんね』
警察からそう言われた時、隣で聞きながら、かれんは今のように久子に向かって心配そうな顔を向けていた。
「すみません。今、お金払います」
サンドイッチを受け取り、財布を取りに戻ろうとすると、
「あっ、いいんです。いつもいらして下さるので、サービスです」
かれんが両手を振って、笑顔で頷いた。
「すみません、本当にありがとうございました」
自分を心配してくれる誰かがいることで、驚くほど気持ちが落ち着いた。もう少しだけ話したいような気がしたけれど、これ以上引き留める理由はなにもない。
「こちらこそ、突然来たりしてごめんなさい」
かれんが一歩下がる。久子がドアノブに手をかけた。会釈しながら、ゆっくりドアを閉める。
「あのっ!」
ドアが閉まる前の細い隙間から、かれんが叫んだ。
「もしよかったらですけど……今夜、うちに泊まりませんか?」
かれんの言葉に、久子は驚いて目を瞠った。
