【小説】忘れえぬ女(ひと) 最終章 第3話
第3話
「お待たせしました」
女性店員の声に、久子は広げていたノートを閉じて脇に寄せた。テーブルの上にパスタとスープとサラダが並べられていく。
「ごゆっくりお召し上がりください」
久子はスープのカップを手に取り、口をつけた。コンソメのうま味が空腹にじわりと染みる。
近所にある『カフェ・モカクリーム』はお気に入りの店だ。料理も好きだし、落ち着いた雰囲気の内装も好みだった。混みあう時間帯を避け、ランチ営業が終わる頃に来ることにしている。
厨房では店主と思しき女性が料理をしている。母親と同じくらいのその女性はいつも、「いらっしゃいませ」と久子に温かな笑顔を向けた。
久子を見て恐ろし気に顔をひきつらせたりしない。最初に来店した時は一瞬だけ驚いたように瞬きをしたが、次からは久子の姿を見るたび、まるで来訪を喜んでいるように微笑みかけてくる。実はそこがこの店を好む一番の理由だ。ここでは、自分の顔を思い出さずに済む。
「お下げして、デザートをお持ちします」
若い女性店員が、食べ終えた皿を運んで行った。厨房の女性店主と笑顔でやり取りしている。若い女性店員は大学生くらいだろうか。久子と年齢は近そうだが、とても可愛い顔をしており、女性店主とはまるで親子のように親しそうだった。急に現実に引き戻されたような気がして、久子は再びノートを開いた。
そこには新聞記事の切り抜きや図書館で見つけた資料のコピーが貼ってあった。余白に自分なりの考察を書き入れる。
耳目を集めるような大きな事件にも、そうではない小さな記事にも、久子なりの見解を書いていった。苦しんでいる人たちの現状やその気持ちを文章にして世間に伝える、いつかそんな仕事がしたい。
時計を見る。そろそろランチ営業の終了時間だ。久子は立ち上がり、レジへ向かった。
「ありがとうございました。こちら、サービスです」
若い女性店員が小さな袋に入ったクッキーを差し出す。久子は小さく会釈して受け取ると、店を出た。商店街をぶらぶら歩く。ふとショーウインドーに飾られた服を手に取り、ぎくりとした。ガラスに映った無防備な自分の顔と目が合う。服を戻し、家に向かって足を速めた。
ふいに香の匂いが鼻をかすめた。この近くに、ほんの小さな鎮守の森がある。入口にはすっかり朱がはげた小ぶりの鳥居があり、奥には社があった。久子は時おりそこを訪ねていた。神など信じていないが、他人の目を気にせずに過ごせる数少ない場所だ。
わずかな石段を登り、奥へ進む。賽銭箱に小銭を入れ、手を合わせた。目を開けると、なんとなくだがいつもよりも暗すぎるような気がした。雨が降るのかもしれない。久子は踵を返した。
その時だった。大きな手が久子の口をふさぎ、羽交い絞めにした。あっという間に地面に倒される。サンダルを履いた足は、地面を滑るだけで踏ん張りがきかない。
恐怖で喉の奥が詰まった。目の前に男が立っていた。
「おま、おまえは、わっわるい女だ」
久子の奥歯がガタガタと音を立てる。
『おまえはわるい女だ』
ポストに入れられた白い封筒。手紙に書かれていた文字が蘇る。
「ふっ風・信子。おま、おま、おまえ」
言いながら男が久子の上に馬乗りになり、カッターナイフを取り出した。悲鳴が喉の奥に張りつき、声が出ない。
ふいに男の姿がかき消えた。久子は目を瞠った。男が地面に転がっている。そして、目の前で一人の女性が肩で息をしていた。口もきけない久子を引っ張り上げる。
「おま、おま、おまえ、じゃま、するな」
言いながらも、男は突然現れた女性に驚いて、身動きが取れないようだった。女性は久子を背中にかばいながら後ずさりし、久子の手を取って寺社の出口に向かって駆け出した。
サンダルが滑り、なんども転びそうになりながら、大通りへ出る。途中振り返った時、男が反対側に向かって逃げていくのが見えた。それでも久子は女性と共に走り続けた。
息が切れて走れなくなった頃、女性が足を止めた。久子は咳き込み、何度も唾をのみ込んだ。
「だ、だいじょうぶ、ですか……」
切れ切れに女性が尋ねた。その顔を見て、やっと彼女が誰だか思い出した。さっきまで食事をしていた『カフェ・モカクリーム』の若い女性店員だ。
「あ……ありがとうございます……」
呼吸を整え、そう言って頭を下げた。女性店員が「いえ……」と呟いて首を振る。
「どうして……」
久子の問いに、女性店員がポケットに手をやり、ペンを取りだした。
「これ……」と女性は胸に手を当てて息を整えると、
「お忘れ物です」
と笑顔で差し出す。
「このために……わざわざ?」
「次のご来店の時までお預かりしようとも思ったんですけど、急げば追いつくかなって」
女性店員が照れたように笑った。久子も息を漏らすように微笑む。
「ありがとう」
ペンに手を伸ばした。しかし、指先が震えてうまくつかめない。慌てて両手を合わせ、揉み絞った。けれども、震えは止まらない。
「大丈夫ですか……?」
言いながら、女性が久子の二の腕に手を触れた。もう片方の手で、震える久子の手をさする。
「さっきの人、誰なんですか?」
久子が首を横に振る。女性は険しい顔になると、
「警察に行きましょう。わたしも一緒に着いていきますから」
と言って、久子をさする手に力を込めた。
