【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第5話
第5話
ガラス戸の内側でカーテンが引かれた。部屋の灯りがベランダの手すりに反射する。
「あの、ありがとうございました」
ガラス戸を開け、女の子がベランダの創に声をかけた。髪はまだ濡れたまま、タオルを首にかけている。
「ああ」
創はスマホをポケットに入れ、部屋の中に戻った。
結局、行く当てがないという女の子を部屋に連れて帰ってきてしまった。楽屋から持って帰ってきた、創のリュックの中でつぶれかけていた弁当をあっという間に平らげ、女の子はぽつりぽつりと事情を打ち明け始めた。
「東京に来たのは三日前です」
女の子は平保奈美と名乗った。最初の二晩は二十四時間営業のネットカフェに寝泊りしていたそうだ。ただ最初に入った店では、未成年が宿泊するには身分証の提示が必要で、保護者の連絡先も記入しなくてはならないと断られた。
そのため大手ではない別の店で泊まっていたが、二日目にシャワーを浴びようとしたら覗かれて写真を撮られた。慌ててその店を出たが、怖くて他の店にも入れなくなり、昨夜はファミレスで座ったまま夜を明かした。
「うちの風呂……入るか?」
口にした途端、まるで悪いことをしているような気がして、背中にどっと汗が湧いた。
「いや、変な意味やのうて、入りたいんかな思うて」
慌てて両手を振る。保奈美が恥ずかしそうに頷いた。
「すみません、貸してもらってもいいですか……?」
創の住むワンルームの部屋は狭いユニットバスしかなく、玄関前のスペースを脱衣所代わりにしている。リビングと玄関の間にはカーテンすらない。保奈美がシャワーを浴びている間、創はスマホを片手にベランダに出ていた。
結んでいた髪を下ろし、大きめのスウェットに着替えた保奈美は、さっきよりも幼く見えた。小柄なので、小学生と言っても通用しそうだ。
「ほんで、家はどこなんや」
創の質問に、保奈美が顔を曇らせる。
「あんな、ちゃんと答えんと今すぐ出てってもらうで。こんなことが世間にばれたら、俺は一巻の終わりや。きみがもし警察にでも行って、この部屋に連れ込まれたとか、俺に誘拐されたとか言うたら、弁解の余地なく逮捕されるわ」
「そんなことしません」
保奈美が固く首を横に振った。
「俺に恩を感じてくれてるなら、ちゃんと答え。どこから来たんや。お父さんとお母さんは、きみが東京に来てるゆうこと知っとるんか」
創の問いに、保奈美は一瞬ためらった後、
「山梨県から来ました。父はいません。母は……」
と言葉を切り、下を向いた。
「母は、姉を探しに行くって、いなくなってしまったんです」
「なんやそれ」
創は口を曲げた。まるで、迷子の言い訳のようだ。
「それで、わたしも姉を探しに来たんです」
「ちょっと待てや。なんやねん、その……お母さんがお姉ちゃんを探しに行ったって」
頭を抱える。厄介なことになった。この子を保護したことをたちまち後悔した。
創がため息をついた。保奈美がうなだれる。
「あんなあ、自分、つくならつくで、もうちょっとマシな嘘つきや!」
保奈美が肩をすぼめ、鼻を鳴らした。泣かれてはかなわないと創は身構えたが、保奈美はぎゅっと口を結んで顔を上げると、
「ごめんなさい。でも、本当に家出じゃないんです。これだけは嘘じゃありません」
「ほな、それ以外は嘘やん」
保奈美がしゅんと小さくなる。
あーこれって言質取られるんかな。創の脳内で、手帳を掲げた警察が次々と詰問してくる。
『あなたは彼女が本当のことを言っていないということをわかっていたわけですよね』
実家の両親と相方の顔が浮かんだ。すまん、申し訳ない。
「それで、きみは一条かれんのなんなん?」
さっきのやり取りを思い出した。
『ただ、一条かれんに会いたいだけなんです』
あのひと言が聞こえなかったら、創はあのまま立ち去っていただろう。
「これ以上嘘つかんといてや」
創の言葉に、保奈美は神妙に頷くと、意を決したように口を開いた。
「一条かれんは、わたしの姉です」
「ホンマか?」
保奈美はバッグを開き、中からポケットアルバムを取り出した。ページを開き、創の前に置く。
「ずっと前の写真ですけど……」
写っていたのは高校生くらいの女の子と、幼稚園生くらいの女の子だった。小さい方は保奈美だろう。面影がある。一条かれんの顔にはあどけなさが残り、コメンテーターとしてテレビに出演する今の彼女と同一人物だとは、言われなければわからない。
写真の中のかれんと目の前の保奈美を見比べた。確かに似ている。
「ほな、スタジオの外で待ち伏せなんかせんと、直接連絡したらええやんか」
「違うんです」
保奈美が首を振る。
「テレビに出ているあの一条かれんは、姉ではないんです。うまく言えないんですけど、あれは偽物だと思うんです」
保奈美の言葉に、創はぽかんと口を開けたまま、返す言葉が出なかった。
