【小説】忘れえぬ女(ひと) 第1章 第9話
第9話
休日の朝、遅く起きた蓮がダイニングに行くと、兄が台所に立っていた。
「おっす。目玉焼きでいいよな?」
そう言って、兄が冷蔵庫を開けて卵を取りだす。食卓のベビーチェアには甥が座っており、ミニトマトにフォークを突き立てようとしてつるりと逃げられた。
トマトを拾い上げて皿に戻してやりながら、兄の背中に声をかける。
「……義姉さんは?」
「なんかちょっと具合が悪いってさ」
兄はこちらに背を向けたまま、フライパンに卵を割り入れた。父は既に食べ終えたのか、汚れた皿だけが置きざりになっている。
「大丈夫なの?」
不在の義姉の席に目をやりながら蓮は尋ねた。
「大したことはないみたいだよ。寝てれば治るって」
兄がフライパンに蓋をしながら、肩越しに蓮に顔を向けて言った。おそらく昨夜はあまり寝ていないはずなのに、そんなことも感じさせない普段通りの態度だった。
昨夜、真夜中過ぎに目が覚めた。もう一度寝ようと目を瞑ったが、遠くからなにか聞こえる。少しずつ意識が覚醒し、蓮は音の方に顔を向けた。人の怒鳴り声だ。
そっと起き上がり、暗い廊下を進む。ダイニングの明かりがついており、兄と義姉が向かい合って座っていた。
「よう、どうした。小便か」
兄が蓮に気づいてそう言った。義姉はさっと顔をそむけたが、明らかに泣いているのがわかった。二人の真ん中に、兄のスマホがあった。
「喉乾いたのか」
兄が立ち上がり、コップに水を汲んで蓮に差し出す。黙ったまま受け取り、二口だけ飲んで残りを流しに捨てた。沈黙が恐ろしかった。
おそらく、兄にとってこの上ない危機的状況のはずだ。スマホを前にしているということは、動かぬ証拠を突きつけられているに違いない。それなのに、兄はちっとも焦る様子もなかった。蓮は慌てて部屋へ戻っていった。
その後も、言い争いは一晩中続いていたようだった。と言っても聞こえてくるのは義姉の声だけで、兄が声を荒らげることはなかった───。
「こらこら、あっくん。ちゃんとおっちんしなさい」
椅子の上に立ちあがろうとした甥に向かって、兄が穏やかにたしなめる。
演技なのか、それともなにも感じないのか。兄の様子からそれをうかがい知ることはできない。蓮はもう一度、義姉が不在の席に目をやった。
