【小説】忘れえぬ女(ひと) 第1章 第13話
第13話
「昴ちゃーん、ちょっと来て。へんな虫がいるー」
脱衣所で義姉が呼んでいる。「どれどれ」と呟きながら、兄が廊下の向こうへ消えた。
家の中は再びきれいになった。トイレットペーパーは補充され、洗面所の蛇口もきれいに磨かれ、食卓には義姉の手料理が並んでいる。
兄が義姉を伴ってダイニングへ戻ってきた。
「お義父さん、蓮くん、おかわりする?」
蓮と父が返事の代わりに小さく頷く。リビングに小さなマットが敷かれ、甥はその上で昼寝していた。小さな手足が投げ出され、胸が上下している。
テレビがぱっと切りかわり、今夜放送する番組の宣伝が流れた。義姉が画面を指さす。
「あっ、これ知ってる? 会いたい人を探してくれる番組」
「へえ。こういうの、今でも人気あるんだ」
「ドキュメンタリーみたいな? みんな、他人の家の不幸な話って大好きじゃない」
兄と義姉は笑い合った。蓮と父は黙って箸を動かす。
「そういえば、昂ちゃんと蓮くんのお母さんって、今はどこでどうしてるの?」
義姉が突然そんなことを言った。蓮はちらりと父の顔を見た。兄はわずかに首をかしげる。
「さあ。俺は全然知らない。親父は連絡取ってるの?」
「いや……」
父がぼそりと答える。続く言葉を待つが、それ以上なにも出てこなかった。
「じゃあ、母さんがどこにいるか知らないの?」
「……ああ」
初めて知る事実は、もう傷まないはずの蓮の心をちくりと刺した。
「探してもらったら? この番組で」
義姉の言葉に、兄は曖昧に笑った。父も蓮も黙ったまま、テレビは別の番組を映し出す。
「……あのさ……」
蓮が口を開いた。父が箸を止め、兄と義姉が顔を上げる。
「この家を出ていこうと思ってるんだ」
下を向いたまま、沈黙が終わるのを待つ。最初に口を開いたのは兄だった。
「なんで?」
いつもの引き出しに爪切りが入っていないのはなんで? そんな感じの聞き方だった。
「一人暮らしがしたくなったから」
蓮の答えに、兄は「ふうん」と言って両腕を組んだ。
「住むところはもう決めてんの?」
「いや、まだ。でも候補はいくつか絞ってる」
ネットで不動産広告を探した。一人で暮らすことは、思ったよりも難しくないと知った。
「えー、淋しいな。蓮くんこの家からいなくなっちゃうの?」
義姉がそう言って口を尖らせる。父はなにも言わなかった。
「それって、いつの予定? 来年から?」
「いや、来月には」
「えー! そんなに急なの?」
リビングで寝ていた甥が、ふえんと泣き声を上げた。すぐにまた静かになる。
「引っ越しの準備とか、手伝うから言ってね」
「大きな家電は引っ越してから買うだろ? 荷物運ぶ時は、俺が車を出してやるよ」
義姉と兄が、同じ笑顔でそう言った。
「ありがとう」
そう言って、蓮は残った味噌汁をご飯にかけた。テレビがまた、今夜放送する番組の宣伝を流す。十年ぶりに再会を果たしたという親子と思しき二人が、涙を流しながら抱擁していた。
