【小説】忘れえぬ女(ひと) 第2章 第8話
第8話
あっという間の三時間だった。盛り上がりの中で終了し、風花は恩師を建物の外まで見送ると、会場に戻って最後の確認をした。
「ブーちゃん、こっちこっち」
二次会の居酒屋に遅れて入っていくと、出迎えにやってきた美咲が風花の手を取って奥の座敷に連れて行く。
「今日の功労者にカンパーイ!」
既にできあがっているメンバーが喝采と共に風花を迎えた。一次会の時よりもくだけた様子の一同が、次々と杯を重ねる。
ジョッキを傾けながら、十年の歳月が変えたクラスメイトたちの姿を眺めていると、
「ねえねえ、ブーちゃんはどうなの?」
突然水を向けられた。
「つき合ってる人、いる?」
とっさに悠作が頭に浮かんだ。しかし、
「いるわけないじゃーん」
現実の五十嵐くんを目にした途端、音もなく脳内からかき消される。
「だよねー」
返答にカチンときた。少しは見栄を張ってやればよかった。
「あのさ、誰か幸田さんの連絡先って知らない?」
祐奈がそう言って一同を見回した。一瞬、座が静まり返る。
「ブーちゃん知ってるんじゃないの?」
遠くから声がした。風花は慌てて首を振る。
「あっ、それじゃあさ、幸田さんってどこの高校に行ったんだっけ?」
風花の斜め向かいに座っていた男子が手を挙げた。
「立花か。あのさ、試しにそっちで聞いてみてくれない? 幸田さんの連絡先」
「祐奈、どうしてそんなに幸田さんにこだわってるの?」
隣に座る美咲が首をかしげる。「別に仲良くなかったよね。そんなに会いたかった?」
祐奈は首をすくめ、小さく横に振った。
「ちょっとね」
ジョッキに口をつける。それ以上なにも言うつもりはないようだった。
「来れるわけないよね、幸田さん」
美咲は手で口元を隠し、小さな声で言った。他のメンバーが呼応するように目交ぜする。
「ずっと孤立してたもんね」
風花は黙ったまま聞いていた。あの頃、幸田久子と親しくなろうという風花の試みは、ことごとく打ち砕かれた。
「あれは本人が悪いでしょ。近寄るなってオーラ、ばんばん出してたんだから」
誰かの声に、美咲が首をすくめる。
「ねえ、あの噂なんだったっけ? ほら、幸田さんが少年院に入ってたとか、人を殺したことがあるとか」
祐奈が再び全員に向かって尋ねた。数人が「ああ」と声を漏らす。
「そういえば、そんな噂あったね」
風花も思い出した。二年生になってからだった。幸田久子がかつて、少年院に入っていたという噂が流れたのだ。
それが本当なら、小学生の頃ということになる。現実味がなく、ただでさえ嫌われ者の幸田久子を貶めるための根拠のない噂としか思えなかった。
「少年院じゃなくて、鑑別所じゃなかった?」
「どう違うの?」
みんなが口々に言うが、噂の真相は当時から定かではなく、話は立ち消えになってしまう。
「極めつけは修学旅行事件だったよね」
美咲がぽつりと言った。風花は顔をしかめた。嫌な記憶を閉じ込めていた蓋がこじ開けられる。
修学旅行事件──思い出すのも苦痛だ。口の中が苦くなり、ハイボールの味がわからなくなった。
誰とも打ち解けようととしない幸田久子に、風花はなにかと声をかけたが、頑なな態度を崩すことはできなかった。しかしその様子を知った学校は、幸田久子が完全に孤立することを避けるためか、風花と幸田久子を三年間同じクラスに配置した。担任もまたベテランである石橋教諭のままだった。
三度目に同じクラスになった時はいい加減にうんざりしたが、そこには五十嵐くんがいたので、それだけは幸運だった。
三年生になって間もないころだった。初夏の修学旅行に向けて、班別行動のためのグループ分けをすることになった。仲のいい者同士で組んでいいという先生の言葉に、クラス中が沸き立った。
しかし当然のことながら、誰もが幸田久子と同じ班になることを嫌がった。彼女はグループ分けを無視し、自分の席に座ったまま本を読んでいた。
「幸田さんは一人で班行動するの?」
いつも幸田久子をからかいたがる女子が、幸田久子の背中に向かって言った。
「一人だったら班じゃないじゃん」
誰かがそう言って、クラス中が笑う。その時、五十嵐くんが幸田久子の前に立った。
「幸田さあ、うちの班に入る?」
教室が静まり返った。五十嵐くんと一緒の班の男子たちが目を剥いた。幸田久子は無言だったが、珍しく驚いた様子を見せていた。
「幸田さん、一緒に班行動しようよ」
気づいたら風花はそう言っていた。自分の言葉を証明するように、彼女の隣の席に腰を下ろす。見ていた男子は安心した様子で、五十嵐くんを連れ戻した。
幸田久子が風花に顔を向ける。感謝の目を向けられるとばかり思っていた風花は言葉を失った。彼女は口を歪め、あざ笑うかのように風花を見ていた。
──偽善者。
そう言われた気がした。ムッとしてなにか言おうとしたところで、チャイムが鳴った。
「ちょっとちょっとブーちゃん」
風花と共に班別行動をする約束をしていた、美咲と祐奈と、もう一人のメンバーである志保が、風花を廊下に連れ出した。
「ブーちゃんさ、何で勝手なことするわけ?」
祐奈にきつい口調で言われ、心臓がすくみ上った。
「だって、誰かが入れてあげないと可哀想じゃない」
それでも強く言い張った。悪いことはしていない。理解してくれるはずだ。
「やだよ、幸田久子なんかと班別行動したら、せっかくの修学旅行が台無し」
美咲が口をとがらせる。祐奈と志保が頷いた。
「だって、幸田さん一人ってわけにいかないでしょ」
新学期早々、担任からも「幸田さんのこと、よろしくね」と声をかけられている。
「だからって、なんでうちらが引き受けないといけないの」
と眉をひそめる美咲の横で、
「そしたら、ブーちゃん一人で幸田久子と班別行動すればいいじゃん」
祐奈が言った。激しい口調ではなかったが、それだけに胸に刺さった。
「ちょっと、それは言い過ぎだよ」
美咲が諫める。しかし祐奈は冷たい目で風花を見ている。折れるつもりはなさそうだった。
「わかった、そうする」
風花が言った。美咲と志保が慌てたように、
「ちょっと待ってよ。うちら、ブーちゃんを仲間はずれにしたいわけじゃないから」
「ただ、勝手に決められたことにむかついただけだから」
風花の腕や背中をさする。しかし風花は口を結び、首を振った。
「ごめんね、わたし幸田さんと二人で班別行動するから、この班は抜けるね」
「なに意地張ってんの」
祐奈が腕組みをして言った。
確かに意地を張っていた。けれども、もう後には引けない───。
「なあ、ブーちゃん。今日はもう、幸田は来ないかな」
肩を叩かれて現実に引き戻された。
三橋健吾。中学の時から髪を茶色く染め、整髪料でしっかりキメてており、クラスでも目立つ存在だった。家が金持ちで、なにかというと他人を小馬鹿にする。風花にとっては苦手なタイプだ。
「うん、連絡先がわからなかったから」
「そっか、残念」
三橋が顔を曇らせる。
「どうして?」
意外を越えて、不思議な気がした。三橋など、最も幸田久子をからかっていた部類に入る。
「なあなあ、みんなこの後どうする?」
三橋健吾が大きな声で尋ねた。一同が近くの者と顔を見合わせる。
「あのさ、よかったらみんな俺んちに来ない? 面白いもの見せてやるからさ」
「面白いもの? なにそれ」
一人が尋ねる。しかし三橋はにやりと笑うと、
「まあ、見てのお楽しみ」
と嘯いた。
