【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第25話
第25話
マッサージチェアに身を任せていると、保奈美が女湯の暖簾をくぐって出てくるのが見えた。手を挙げて合図をする。
「ほい」
冷えたフルーツ牛乳の瓶を手渡した。
「ありがとうございます」
保奈美が笑顔になる。つられて創の口元がほころんだ。
一条かれんが性被害に遭ったことを知ってから、元気のない保奈美の姿を見るたび、心を痛めてきた。
「せや、今からええとこ連れてったるわ」
ふと思いつき、保奈美を銭湯に連れてきた。以前、全身が冷え切った過酷ロケの帰りに見つけたところだ。
保奈美はことのほかリラックスできたようだった。表情が柔らかくなり、口をすぼめてフルーツ牛乳を飲む様子にも緊張が見られない。
「どうやった?」
銭湯からアパートに戻る道すがら、創が尋ねた。
「すごく気持ちよかったです」
いつもはきっちりと縛っている髪を下ろしている風呂上がりの保奈美は、ほんの少し幼く見える。
「せやろ」
妹がいたら、こんなんやったんかな。
ふとそんな考えが浮かんだ。保奈美を笑顔にしてやりたいという気持ちは、身内に対する気持ちに似ている。
「風呂場の壁、見たか? おっきな絵があったやろ」
保奈美の反応を待ちきれず、創が尋ねる。元気づけられたのは自分も同じだった。富士山の絵を見ていると、大きな存在に励まされているような気がする。
「はい、見ました」
保奈美が目を細めて頷いた。
「やっぱええよな。見てるとなんか、小さなことでクヨクヨせんと頑張らなあかんなって思ってまうわ。日本人の心やからなぁ」
言ってから恥ずかしくなる。少々熱くなりすぎた。
「そうですよね」
保奈美がしみじみと呟く。
「きれいだなぁ……って思ったら、少し涙が出てきました。不思議ですね」
「せやな。でも、どうせなら実物を見たくなるな」
銭湯の絵ではなく、本物を見たらもっと勇気づけられるだろう。
「そうですね。でも今年はもう散ってしまったし、来年の春まで待たないとですね」
保奈美の言葉に、創が足を止める。
「え?」
創の視線を受け、保奈美は口元に手をやった。
「あ、あの……?」
その戸惑った顔を見て、自分がどんな顔をしているか気づいた。創は額を掻くふりで顔を隠すと、
「ひょっとして、女湯の壁には桜の絵が描かれてるんや?」
「ええ、そうです」
保奈美が頷く。
「ああ……そうなんや。女湯と男湯では、絵が違うんやな」
独り言のように呟き、先に歩き出した。
「男湯はどんな絵なんですか?」
保奈美が追いついて尋ねる。
「うん……まあ別に、普通の絵や」
「知りたいです。教えて下さい」
「いやあ、大した絵やないって」
創はごまかすように手を振ったが、保奈美の痛いほどの視線を感じる。前を向いたまま呟いた。
「男湯は富士山の絵なんや」
「富士山……」
「ま、それだけのこっちゃ」
創は足を速めた。アパートが見えてきた。
「創さんは、わたしに富士山を見せてくれようとしたんですね……」
「うん? まあ、せやけど別に桜でもええよな。桜も、日本人で嫌いなやつおらんし」
ふと振り向くと、保奈美がじっと黙って考え込んでいる。
「……創さん」
「ん?」
「創さんにとって富士山は特別なんですよね」
保奈美の言葉に、創は諦めて小さく息を吐いた。
「気づいとったん?」
保奈美は小さく微笑むと、
「キッチンの床にある、ご実家から送られた段ボール。『静岡みかん』って書いてあるなって思ってました」
送り状も貼りっぱなしだ。静岡の実家の住所が載っている。
「なんや、俺アホやな」
笑いながら頭を掻いた。
「すみません」
保奈美が頭を下げる。
「謝ることやないよ。なあ、ダサいやろ」
「そんなこと」
後ろからきた車が二人を追い越していく。エンジンの音が遠ざかってから、創が口を開いた。
「大阪には、ホンマに住んでてんで。小学生の時やけど」
転勤族の家庭で育った。両親の実家がある静岡に家を建ててからは、父だけが単身赴任になった。
「最初、静岡の学校でな、しゃべりかたが変やってからかわれたけど、思いっきり『なんでやねん!』『うっさいわ!』って使うてたら、そのうち人気者になってな。『まるでテレビのお笑い芸人みたい』って」
創なりの処世術だった。人を笑わせることで自分の居場所を作った。それが芸人を目指すきっかけになった。
「せやから、俺の大阪弁ちょっとおかしいところあるやろ。色々混じってて」
「わたしにはわからないです」
保奈美が首を振った。
「でも、創さんの気持ちわかります。わたしも、自分の居場所を作ることで必死でした」
妻の過去に嫉妬する父、肩身の狭い母、疎外される姉。いびつな家庭の中で、どうすれば愛されるかを求めた。
「幸田久子は……どんな子供だったんでしょうか」
保奈美がぽつりと呟いた。
「せやな……」
顎に手をあてて、創が考え込んだ。
「調べてみよか。なんや、手がかりがあるかもしれん」
