【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第31話
第31話
『拝啓 幸田久子さま
チャコちゃん、ごめんね。チャコちゃんがこの手紙を読む時には、わたしはもうこの世にいません。
本当にごめんね。ずっと力になってくれたのに、こんな方法しか選べないことを申し訳ないと思っています。
多岐川先生にも申し訳なかったです。とても親切に相談に乗っていただいたのに。代わりにお礼を伝えておいて下さい。
わたしがあの監督にされたこと──今すぐにでも忘れたいのに、決して消えてくれないのです。起きていても、夢の中でも、わたしを追いかけてくるのです。
神園監督のワークショップに参加して、役をもらうことができました。少しだけどセリフももらえて、本当にうれしかった。
出番がない時でも、スタッフとして色んなことを手伝いながらプロの役者さんのお芝居を見て学ぶために、毎日のように現場へ通っていました。
あの日、演技について監督に質問したのはわたしの方からでした。
監督が特別に演技指導をしてくれることになって、二人で食事をしてから、普段は事務所の資料庫になっているというアパートの一室に行きました。
そこで何度も、「違う」「そうじゃないと言ってるだろう」「なんど言えばわかるんだ」と叱られました。そして、
「もう一度」
と、数えきれないほど同じ演技をくり返しました。
泣いてはいけないと思っても、途中から涙が出てしまって、そうなるとますます、
「泣くな」
「そんなんだからお前はダメなんだ」
と否定され続けました。
わたしは頭が働かなくなり、ひたすら監督の言うがままに演技を繰り返していました。
「もう辞めたい」と言うことはできず、相手の機嫌を損ねたらもっと悪いことが起こる、ということしか考えられなくなっていたのです。
そうしたらやっと、「それだよ、やればできるじゃないか」と監督が褒めてくれました。
わたしはホッとしてまた涙が出て、その時に監督に対して完全に心を開いてしまいました。
監督の行為を疑う気持ちなどひとつも起こりませんでした。
だから、男性を誘惑する演技をしろと言われて、監督の言うがままに服を脱がされても、身体を触られても、途中まではそれが本当に演技指導なのだと思い込んでいました。
違うと気づいた時はもう、心も身体も動けませんでした。
ここまでは、少しだけチャコちゃんに話したよね。
実はわたし、チャコちゃんにまだ言っていないことがあります。
わたしは心と身体にひどくショックを受けていたにもかかわらず、理由もなく休むわけにはいかないと思って、次の日にも現場に行ったんです。
そうしたら監督がわたしを呼び、こっそり耳打ちしたのです。
「昨日は申し訳なかった。あんなつもりじゃなかったのに、酒を呑んだのがいけなかった。もし君さえよかったら、今度こそちゃんとした演技指導をしたい」と。
それで、次の日も同じようにあの部屋へ二人で行ったんです。
馬鹿ですよね。これを読んで、チャコちゃんは驚き、呆れていると思います。
その時はまだ、思考が半分停止している状態でした。けれども、今ならあの時の気持ちを説明できます。
もし監督が謝ってくれて、ちゃんとした演技指導をしてくれるなら、あのことは帳消しになるのではないかと思ったのです。
あれを、なかったことにしたかった。蓋をして、忘れることができるならそうしたかった。
けれども部屋に入るなり、監督は
「お前、純情そうな顔をして、ずいぶんと好きものじゃないか」
と言って、襲いかかってきました。
騙された、とわかったけれど、その時、自分がとんでもなく汚されたような気がしました。
前の日にあんな目に遭ったのに、再びこんなところにのこのこついてくるなんて、わたしはどれほど愚かなのか。
自分が悪いのだから、抵抗してはいけないのだと思いました。少し我慢していれば終わるのだから、その方が楽だと。そんな風に考えてしまったのも、前の日の、監督に対する恐怖心が残っていたせいでしょう。
けれどもその日からわたしは日常生活ができなくなり、あとはチャコちゃんの知っている通りです。
二度目の被害のことは、チャコちゃんにも言えませんでした。誰にも言えないと思いました。
だって、これを聞けば誰だって、あれが合意の上のことだと思うでしょう。
本気で嫌だったら、全力で抵抗しているはずだ。ましてや二度も自分からついていくはずがない。そんな世間の声が聞こえてきて、わたしを責め立てるのです。そしてその声は正しく、間違っているのは自分なのです。
そんな自分が情けなくて、悔しくて、自分でいることがつらくて……この苦しみは死ぬまで終わらないでしょう。
自分でこの命を終わらせようと思います。
チャコちゃん、本当にごめんね。でも、もう、この方法しか思いつかないのです。
チャコちゃん、これまで本当にありがとう。チャコちゃんと友達になれて、わたし本当にうれしかった。
家族のように、誰かと一緒に生活ができることが楽しかった。一緒の部屋で、一緒に食べるご飯は美味しかった。
ずっと力になってくれたのに、こんな風に最後に迷惑をかけてごめんね。
わたしの持っているもので、もしチャコちゃんの人生で役に立つものがあったら、使ってください。
と言っても、たぶんいらないものばかりで、処分してもらうことになっちゃうけど。
わたしの遺体は探さないで下さい。きっと見つからないと思います。
もし天国に行けたなら、わたしきっと見ているからね。チャコちゃんが夢を叶えるところを。
チャコちゃんの人生が素晴らしいものになりますように。
きっとなるよ。だってチャコちゃんは素敵な人だから。
チャコちゃんは運命に負けないで、頑張って。
最後に。チャコちゃん、これまで本当にありがとう。チャコちゃんの幸せを祈ります。
一条かれん』
