【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第33話
第33話
居酒屋の個室で、創はジョッキに残っていたビールを一気にあおった。
タッチパネルでお代わりを頼み、手持無沙汰に周囲を見回す。以前、大石に連れてきてもらったのと同じ部屋だった。薄暗く、和風の照明がほんのり灯っている。
保奈美を見送った勢いのまま、創はその足で洋太のアルバイト先に向かった。終わるのを待って、話があると引っ張ってきた。
「話ってなに?」
洋太が口を開いた。上目遣いに創を見る。
創は掘りごたつの下で足の指をもじもじとこすり合わせた。さっきまで熱くなっていた心が、今は緊張で固くなっている。言おうと決めてきたはずの言葉がひとつも出てこない。
「でも、僕も創と話さなきゃいけないって思ってたんだ」
洋太の言葉に、創は顔を上げた。
「あのさ……前に言った、芸人を辞めたいってことについてなんだけど───」
「失礼します。生ビールです」
店員の声がした。個室の扉が開き、新しいジョッキが創の目の前に置かれる。
店員が扉を閉めるなり、口を開きかけた洋太に、
「待った! 先に言わしてくれ」
創が手のひらを向ける。機先を制され、洋太がひるんだ。
「あんな、俺な……実は、大阪出身ちゃうねん!」
用意していたのとは違う言葉が口から飛び出した。
「えっ?」
洋太が目を瞠る。創は下を向いた。
「生まれも大阪ちゃうし、小学生の時に何年か住んどっただけなんや。実家は静岡やねん」
「えーーー!」
洋太がのけぞった。
「嘘ついとったんや」
テーブルに両手をつき、頭を下げる。
沈黙が流れた。そっと顔を上げると、洋太がまだ間の抜けた顔で創を眺めていた。ぼんやりと口を開けたまま、創の次の言葉を待っている。
鼻から息が漏れた。笑いがこみ上げる。
なんて素直な奴や。おもろいな、コイツ。なんや、おもろくて泣けそうや。
「静岡出身ってこと?」
「せやな……静岡に両親の実家があって、里帰り出産やったらしいけど、ホンマの家は岡山にあったわ」
「じゃあ岡山出身?」
「どやろ。その頃のことは覚えてへんな。親父の転勤のたびに引っ越してたんや」
創の言葉に、洋太は何度か頷くと、ふいに顔を曇らせた。
「そしたら、僕も創に嘘ついてたよ」
「え?」
眉を寄せた創の前で、洋太がしゅんと小さくなる。
「実は僕の故郷も、仙台じゃなくてその隣町なんだ」
再び沈黙が流れる。創は目を瞠った。
「知らん!」
個室に声が響く。
「あっ、でも仙台市内まで車で十分かからないよ」
「いや、それ聞いてもわかれへんし」
「高校は市内だったから、よく西口周辺で遊んでた」
「わかれへんって!」
「『群民』ってよく馬鹿にされたけどね」
「わかれへんって言うとるやろ!」
身を乗り出し、洋太の肩をパンと叩く。いい音がした。洋太が笑い出す。
「……わかれへん」
創が呟いた。
「え?」
「わ・か・れ・へ・ん! お前と別れへん!」
洋太が目を丸くする。創はぐっと眉に力を込めると、真っ直ぐ洋太の顔を見た。
「やっぱ別れたない。お前とずっと一緒に漫才やりたい」
言ったとたんに怖くなり、ごくりと唾を飲み込む。周りの音がすべて止まったような気がした。
「わかった」
洋太が呟いた。創が目を瞠る。
「……ええの?」
「うん」
洋太が力強く言った。創がぽかんと口を開ける番だった。
「彼女と結婚するために就職したいんやなかったん」
「ちゃんと話してわかってもらう」
洋太が口を尖らせ、しっかり頷く。強い決意が見えた。
「……そうか」
気が抜けたとたん、急激に恥ずかしくなってきた。照れているのをごまかすために、創も口を尖らせる。
「ああもう、泡なくなってもうたやん」
ジョッキに手をかけた。ビールが喉を通っていくが、味など感じない。急に顔が熱くなってきて、手のひらで扇いだ。
「あのさ」
洋太が身を乗り出した。
「今のさ、ネタに入れられないかな」
なんやコイツ、むっちゃヤル気やん。
今さら相方がこんなおもろいなんて、俺ら、むっちゃ伸びしろあるやんか。
創はジョッキを置くと、
「よーし、新ネタばんばん書いたるぞ。次の予選まで時間ないからな」
次の賞レースはきっといける。見といてくれよ、と心の中で呟いた。
「優勝いただきやな」
と言って洋太がにやりと笑う。
「なんやねん、そのエセ関西弁。きっしょいわ」
「いや、お前に言われたくないし」
「やかましい!」
もうええわ、という言葉が勝手に出た。二人して誰もいない壁に向かってお辞儀をする。
観客の笑い声と拍手が聞こえたような気がした。
第3章 終わり
最終章へ続く
