【小説】忘れえぬ女(ひと) 第1章 第10話
第10話
違和感に気づいたのは、出勤をカードに打刻する時だった。表向きのままの原田のカードが、まだ来ていないことを示している。
珍しいことだった。彼はいつもロッカールームで新聞を読んでおり、蓮が来ると入れ替わりに出ていく。新聞は休憩室から勝手に持ってきたもののようだった。
着替えを終えた頃、社員らしき青年が現れた。身体が大きい分顔も大きく、首をすくめるように背中を丸めた歩き方だった。
「お疲れっす」
言いながらジャケットを脱ぎ、原田のロッカーを開けた。
「あっ、そこは」
蓮がとっさに声をかけたが、青年はかまわず中から作業着を取り出した。手に取って顔をしかめ、
「新しいやつあったかなあ」
と原田の作業着を戻すと、端にある誰も使っていないロッカーを開ける。ビニールに包まれたクリーニング済みの作業着を引っ張り出し、蓮に向き直った。
「自分、今日は原田さんの代わりに夜勤やるんで、よろしくっす」
病欠か。そう思って返事の代わりに小さく頷くが、
「辞めたんですよ、あの人」
と言った青年の言葉に「えっ」と驚きの声が出た。
青年が壁を向き、スーツのズボンを脱ぎ始める。蓮はロッカールームを出て、作業室の前の廊下で合図を待った。まもなく就業時間だ。
「自分、普段は本社の方にいて、こっちにはたまに顔を出すだけなんっすよ」
追いついた青年が横に並び、蓮が尋ねていないことまで話してくる。
「それなのに、まさかこんな工員みたいなことさせられるなんて」
言いながら、作業着を見せびらかすように両腕を広げた。
悪気はないのかもしれないが、無神経な発言だった。別の作業室へ向かう夜勤の男性が、ちらりとこちらに目をやった。
ベルが鳴り、夕方から早晩業務のアルバイトと交代で作業室に入る。
「これ、十二個でいいんすよね?」
青年の問いに黙って頷いた。これまで原田が担当していた、機械を使って梱包する作業を蓮がやることになった。
慣れない作業に汗をかいた。食品管理に室温を合わせた空調が、背中をひやりと撫でていった。
「寒いっすねー、ここ」
青年が呟き、首をすくませる。
「あー、この仕事マジきついっすね」
「まだこんな時間!? この時計、止まってんじゃねえの」
「マジで帰りてぇ。疲れて眠くなってきた」
青年がぶつぶつ呟くが、蓮がそれに応えようとしないため、だんだん口数が減り静かになっていく。
作業に慣れ、やっと集中し始めた頃、
「なんで原田さんが辞めたか知ってます?」
すぐ近くから声がした。見ると、青年が箱を持ったまま、蓮のすぐ背後まで来ていた。
黙って首を振ると、青年はうれしそうにもう一歩近寄り、
「なんと、商品を横流ししてたんですよ」
「横流し?」
「ええ、パクって知り合いに売ってたみたいです。それでクビって」
青年が水平にした手のひらを自分の首に充て、歯をむき出しにした。ベルトコンベアに商品が溜まっているのに気づき、慌てて戻っていく。
「それで今求人を出してるんですけど、新しい人が来るまで、しばらくは正社員で交代なんす」
離れたところから青年が大きな声で言った。蓮は目が合わないように顔を背ける。
いつかここを辞める時は、自分が先だと思っていた。原田は蓮よりも前から、そして蓮が去った後もずっとここにいるものだと思っていた。
置いて行かれた。たとえクビだとしても、先を越されたのだという気持ちになる。
「それにしても、ここの女子工員ってブスかババアばっかりっすね。さっき、目の覚めるようなブスがいましたよ」
元気にしゃべっていた青年は、朝の四時をまわった辺りから完全にスローダウンし、交代の頃にはぐったりしてひと言も口をきけなくなっていた。
