【小説】忘れえぬ女(ひと) 第2章 第6話
第6話
静かなフロアで、キーボードを打つ音が響く。顔を上げると、離れた席にいる課長の上田の姿が目に入った。
上田はエンターキーだけを勢いよく押す癖がある。普段は気にならないそれが、妙に耳に障った。
「あれ、ブーちゃん。まだいたの」
外から戻ってきた同期の男性社員が、風花の姿を見て足を止めた。
「珍しいね。急ぎの仕事?」
「ううん、別に。もう帰ろうと思ってたとこ」
風花はパソコンを閉じた。帰るきっかけをくれた相手に心の中で感謝する。
「どうした?」
立ち去りかけて足を止めた風花に、男性社員が首をひねった。
「なんでもない。お疲れさま」
ロッカールームに向かいながらスマホを開く。受信も着信もない。
外に出るとあたりは暗かった。昼間の暑さに比べて空気が冷たくなっていた。初夏の夜の爽やかな風が風花の汗をさらう。
『実はわたし、今日誕生日なの』
さっき、言おうかどうか迷ったひと言だ。やめてよかった。余計に虚しくなる。
誕生日。そんなものさえなければ、勝手に期待して落ち込んでしまうこともないのに。
悠作と関係を持ったのは五箇月前だ。家電の修理工としてやってきたその顔を見て、少しだけ五十嵐くんに雰囲気が似ていると思った。
「調子悪くなったらここに連絡下さい。これ、個人の番号だから」
力の抜けた口調で、名刺に電話番号を書き込む。誘われているのだと思った。けれどもあとで考えて、勘違いだと打ち消した。
やっと電話をかけることができたのは二週間も経ってからだ。
「わたし、赤羽と申しますけど、あの、こないだエアコンを直してもらった……」
言葉に詰まった風花に、
「ああ、調子悪くなりました?」
気の抜けた口調の返事があった。
「いえ、あの、そういうわけじゃないんですけど……」
沈黙してしまった風花に、相手がぽつりと言った。
「夜、仕事終わってから行きますよ」
本当にやってきた悠作は、ほとんど前置きもおかずに風花を抱いた。
「こういうこと、他のお客さんともあるの?」
ベッドに腰かけて煙草を吸う背中に尋ねた。
「まあ、たまにね」と悠作が嘯く。作業着と帽子を脱いだ悠作は、なおさら五十嵐くんを連想させた。
あんなやつ、取柄は顔だけだ。期待するだけみじめになる。きっと相手は自分だけではないのだから。
風花は一人きりの食事を済ませ、同窓会の準備に取りかかることにした。アルバムを参考にして作ったリストと、スマホに入っている連絡先を照らし合わせる。
風花が把握していないメンバーについては、もう一人のクラス委員だった男子、重岡に連絡をして頼んだ。
『幸田久子は俺もわからない』
そう言った重岡はすぐに、
『待って。自宅ならわかるかも』
電話の向こうでガサガサ音を立てた。個人情報の流布を制限するようになって久しいが、風花たちはかろうじてクラスの連絡網が配られていた世代だ。
重岡から伝えられた幸田久子の固定電話の番号をメモする。女子同士なのだから風花が連絡するのが当然という空気だ。
気が向かないが仕方がない。風花は重岡に教わった番号を押した。高鳴る心臓を抑える。
呼び出し音が消え、静かになる。
「もしもし?」
風花が呼びかけた。しかし返事はない。
「あの……」
雑音が聞こえる。電話は確実につながっているはずだ。
『……はい……』
ややあって、警戒するような小さな声が聞こえた。
「あ、あの。幸田さんのお宅ですか?」
『……はい、そうですが……』
中年の女性の声だった。幸田久子の母親だろう。風花は見えない相手に頭を下げる。
「あの、赤羽と申します。久子さんの中学の時のクラスメイトです」
怪しまれている雰囲気を察して、急いでそう言った。
『はあ……』
相手が呟く。反応の鈍さに、母親ではなかったかと首をひねった。
「久子さんと連絡が取りたいのですが」
風花の言葉に、相手が短く答えた。
『無理』
「はい? あの……わたしの連絡先を久子さんに」
言いかけたのを遮るように、
『だから無理。あの子が勝手に出ていったんだから、どこにいるかも知らないよ』
相手が大きな声で言った。
『あんた、あの子に会ったら言っておいてよ。おまえのせいで人生がめちゃくちゃだ、悪いと思うなら母親に仕送りくらいしろって』
一方的に電話が切れる。風花はスマホをテーブルの上に置き、息をついた。さっき食べたものが、胃のところでつかえているような気がした。
卒業アルバムを広げた。幸田久子の母親の言葉が耳から離れない。アルバムの中の彼女は、世の中を軽蔑するような目つきでこちらを見返していた。
