【小説】忘れえぬ女(ひと) 第1章 第6話
第6話
夕方から雨が降り始めた。蓮は傘を閉じ、工場の入り口の庇の下で水を払う。
作業着に着替えてからエアシャワーの部屋に入った。頭上から風が降り注ぎ、エチケットブラシのように身体のゴミや埃が落とされる。今日の雨の音に似ている気がした。
作業を始めてからも、耳の奥にずっと雨の音が聞こえていた。気のせいだろう。この部屋に窓はない。
無心で作業をしながら、雨の音が一つの記憶を引っ張りだした。雨粒が店のガラス窓に打ちつける光景が浮かび上がる。高校の帰りに、幸田久子と同じ宅配ピザ店でアルバイトをしていた時のことだ。
注文が入るまでは待機の時間だ。宅配係は男性が多く、調理スタッフの女性と恋愛に発展することも少なくなかった。
蓮はいつも耳にイヤホンを詰め、音楽を聴いていた。その上雑誌を広げていれば、誰にも話しかけられずに済む。
幸田久子もまた、学校と同じように誰とも話さなかった。しかし常に働いていた。他の連中がおしゃべりに興じていても、一人でゴミをまとめ、足りない材料を補充し、シンクに散らかったトッピングの具材を片付けた。
「お前も手伝えば」
男性スタッフが、おしゃべりしてばかりの女性スタッフにそう言った。
「いいの。あたしが仕事を取っちゃったら可哀想でしょ。あの子、話す相手が誰もいないんだから」
ひそひそ声が蓮にも聞こえる。ちらりと幸田に目をやったが、気にする風でもなかった。
だから注文に対して率先して調理をするのはいつも幸田久子であり、それを届けるのは蓮だった。音楽を聴いているフリより、雑誌を読んでいるフリより、仕事をする方が楽しい。
雨の日はいつもより注文が多い。普通の飲食店は悪天候だと客足が遠のくだろうが、宅配は逆だ。注文ひとつで、買い物や外食に行く面倒が消える。
普段から勤勉な幸田は、仕事が早く丁寧だった。活き活きと働く姿は、学校とは別人のようだった───。
レトルトパウチの肉団子を箱に詰め、原田の元へ流した。手が勝手に動き、次の箱を作る。
いったい今、幸田久子はなにをしているのだろう。
蓮の頭に、スマホの画面の一文が蘇る。
『みんな久しぶり! 元気? 近いうちに集まりたいね』
もし同窓会のようなものが開かれるとしたら、幸田久子は来るだろうか。そんなはずはない。もしみじめな生活をしているとしたら、昔の知り合いに会いたいはずがないのだ──自分のように。
機械の音が大きくなった気がした。記憶の中の雨脚も強まる。
ひょっとしたら、あの頃とはまったく違う人生を歩んでいるかもしれない。別に美人でなくても、結婚することはできる。
幸田久子は胸が大きい。それを魅力的に感じる男もいるだろう。
たとえ相手が冴えない男でも、結婚して家庭を築けば幸せなはずだ。子供を産み、母親になる。そうなれば、醜いことなど大した問題ではない。
女なんて、意外に簡単に幸せになれるんだな──。
まるで裏切られたような気持ちになる。最後までみじめなのは自分だけ。窓もない場所で、自分がまるでどちらを向いているのかもわからない。
