【小説】烏有へお還り 第29話
第29話
板を削る手を止め、顔を上げた。誰にも聞こえないように、小さく息をつく。
時計に目をやった。窓の外の薄暗さで、もっと遅い時間のように感じていたが、就業時間の終わりまでまだ一時間以上残っている。
普段は途中で集中が切れることなどない。それなのに、今日は作業がちっとも手につかない。
『簡単に言うなよ!』
さっき柚果にぶつけた言葉が耳の奥で蘇る。
どうしてあんな冷たい仕打ちをしてしまったのか。怯えたような柚果の顔を思い浮かべて、胸が痛む。
柚果が訪れるようになってから、苦しかった頃のことをよく思い出すようになっていた。柚果が知らず知らずのうちに身にまとっている『学校』の空気のようなものをどうしても感じ取ってしまう。
柚果のつらい学校生活の話を聞くと、その痛みを知っているだけに、自分も苦しかった。まるで自分がその仕打ちを受けたかのように感じて、逃げ出したくなる。
『わたしも和志くんみたいに、ここで宮大工の修行がしたい』
『いいな……和志くんは』
和志が学校からうまく逃げおおせたことを責められているようで、反射的に叫んでいた。本当は、柚果の力になってやれないことに罪悪感を持っていたのに。
『ごめんなさい……』
傷ついている柚果をさらに傷つけ、置き去りにした───。
和志は道具を板の上に置くと、額に拳をあてがった。目を閉じて、自分の呼吸の音に耳を澄ませる。少しずつ雑音が薄れていく。
ふと、誰かの声が聞こえたような気がした。窓の外に目を向けると、雪が本格的に降っていた。まだ夕方前だというのに空はずいぶんと薄暗い。
雑木林は雪が積もったせいで、小高くなっている部分がこんもりとした山に見える。
「こうして見ると、塚だってわかるな」
いつの間にか祖父が隣にやってきて、雪を見ていた。
「塚?」
「ああ、あの辺りは昔の塚だよ」
「塚って、お墓ってこと?」
祖父が頷く。和志は改めて小高い丘を眺めた。
「ずっと前、あれを建てる時に悪いことが重なって、塚の祟りだなんて言われたんだ」
言いながら、祖父が生涯学習会館を指した。和志は目を瞠った。
「祟り?」
初耳だった。「でも」と首をひねる。
「建てるために塚を壊したりしたわけじゃないんでしょう。隣接してるっていうなら、この加工場だって」
いつも弁当を食べていた場所が塚だったと知っても怖くはないが、祟りと聞くと背中が寒くなる。
「ああ。だが、あれは場所が悪い」
祖父が和志と視線を合わせるようにすぐ隣に並ぶと、
「この先に神社があるのを知ってるだろう」
生涯学習会館の向こうにある神社を指すように、指で宙を翔ける仕草をする。
「あれが魔を封じていたんだ。それなのに、この建物はそれを遮っている」
和志は眉をひそめた。「なんでそんな場所に」と呟くと、祖父は小さな子供を見るように和志に向かって目を細めた。
「その時に、代わりに神社から霊鎮めの銀杏を移植したんだよ」
「あの大銀杏?」
「ああ、あれからずいぶん育ったな」
祖父が自分の作業へ戻っていく。和志は再び道具を手に取った。深く呼吸をして心を集中させた時、また誰かの声が聞こえた気がした。
ひょっとして、柚果がまだあそこにいるのか。
和志は道具を置くと立ち上がった。扉を開けると冷たい風が部屋に入り、加工場にいた人たちが驚いて顔を上げる。
「おい、和志。どうした」
不思議そうな祖父に、
「ごめん、ちょっと」
小さく答えてから、和志は外へ出た。さっき柚果と別れた場所へ向かって駆けていく。
雑木林を抜けていくと、大銀杏のところに人が立っているのが見えた。紺色の制服を着ている。間違いない、柚果だ。
「柚果」
声をかけ、振り返ったその顔を見て驚いた。柚果じゃない。
大人の女性だ。着ているのも制服ではなかった。けれども、その顔は見覚えがあるような気がした。なんとなく、柚果に似ている。
「大翔」
女性が目を瞠り、両腕を広げた。和志に駆け寄り、抱きしめる。
「大翔、よかった。探してたの」
その名前に聞き覚えがある気がした。和志は女性の両腕を解き、引きはがした。
「あの、あなたは」
和志が言いかけると、女性は驚いたように肩をすぼめて後ずさりした。和志に背を向けると、
「柚果、大翔」
名を呼びながら、ふらふらと歩いていく。それで思い出した。以前聞いたことがある。『大翔』は柚果の弟だ。
「あの、どうかしましたか」
女性に追いつき、声をかける。和志の姿すら目に入らない様子の女性に、
「すみません、どうしたんですか!?」
重ねて大きな声で尋ねると、
「家族で秀玄彫りの体験に来たのに、夫や子供たちとはぐれちゃったの……」
独りごとのように呟く。和志は眉を寄せた。今日は体験の日ではない。
──普通じゃない。
背中がぞくっとした。この女性は柚果の母なのだろうか。だとしたら、一体何があったのか。
その時、女性の手にしている小さな手提げの中で音が鳴った。スマホの着信音だ。
「あの、電話が鳴ってます」
そう伝えても、女性はまったく反応せず、ふらふらと歩き続ける。
「あの、鞄の中で電話が」
そう言って和志が手提げに手をかけると、女性はそこからするりと腕を抜いた。落ちそうになった手提げを慌てて受け取り、和志は女性を追いかけた。
「あの、電話、これ」
言いながら、手提げからスマホを取り出す。画面に映る『筧雅樹』という名を見て、やはり柚果の母だと確信した。
着信音が途絶えた。少しためらってから画面を開く。ロックはかかっておらず、着信の履歴を見ることができた。スクロールして、柚果の名を見つける。
女性を追いかけ、スマホを見せた。
「すみません、これ、借りますね」
和志の言葉が耳に入らないのか、女性は黙っている。
「ちょっと待ってて下さいね。今、柚果に連絡しますから」
和志は画面をタップした。雪はまったく止む気配を見せない。呼び出し音を聞きながら、女性の後を追いかけた。
