【小説】忘れえぬ女(ひと) 第1章 第12話
第12話
雨の音が聞こえる。
窓もないこの部屋で、響いているのは機械の音だけだ。それでも、蓮の耳の奥には雨の音が響いている。
──あの日も雨だった。
固く閉めていたはずの記憶の蓋が開く。
高三の時だった。ピザ屋のアルバイト仲間たちが計画し、バーベキューをした。幹事の熱心な誘いを断り切れず、蓮も参加した。
けれどもその場に溶け込むことはできなかった。蓮は紙皿に乗せられたものを静かに食べ続けた。ふと見ると、少し離れたところに幸田久子がぽつりと座っているのが見えた。
「このあとカラオケ行こうよ!」
盛り上がる声は、きっと自分に向けられたものではない。蓮は用事があると嘘をついた。
「わたしは帰る。さよなら」
幸田久子の声が聞こえた。見え見えの言い訳でその場を辞そうとする自分が恥ずかしくなった。
幸田久子が去っていく。蓮もまた同じ道を歩いていった。
「このまま二人でカラオケ行っちゃおうか」
目の前を歩く幸田久子に、例えばそんなことが言える人間になれたら、どんなにいいだろう。今頃、他の連中は自分たち二人を笑いものにしているに違いない。そんなことを考えてしまう自分にうんざりした。
ふいに、顔に水の粒が当たった。いつの間にか空が真っ黒になっていた。雨がアスファルトの色をみるみる濃くしていき、街や人を容赦なく濡らしていく。
蓮は走り出し、幸田久子の横をすり抜ける時に振り返った。一瞬だけ目が合う。次の瞬間、彼女も蓮の後を追って走り出した。
国道沿いの陸橋の下に斜めの空間を見つけ、そこに逃げ込んだ。息を弾ませ、滴り落ちる水を払う。オレンジ色の光が薄暗い空間をぼんやりと照らしていた。
前髪が濡れておでこに貼りついた幸田久子は、いつもよりもさらに醜く見えた。
雨脚は弱まる気配がない。蓮は暗い空を見上げた。
「……入る?」
幸田久子がそう言って、国道と反対側に顔を向けた。さっきからオレンジ色に光っていたのは、ラブホテルの看板だった。
聞き間違いかと思い、幸田久子の顔を見た。彼女はそっぽを向いたまま、黙って雨を見ている。
もう一度降りやまない空を見上げてから、蓮は幸田久子の手を取り、陸橋の下から飛び出した。ラブホテルの入口で手を離し、そのまま中に入っていく。
部屋に入った幸田久子は濡れた服を脱ぎ捨てた。立ち尽くす蓮のそばで、裸になった彼女はベッドに横たわり、クッションを顔に充てた。
「ほら、こうしててあげる。だからあんたは、好きな女の顔でも思い浮かべてよ」
夢中だったから、最中のことはよく覚えていない。幸田久子はほとんど声を出さず、蓮は自分の行為が合っているのか不安になった。彼女がシーツをくしゃくしゃに握りしめ、身を固くする。奥まで入るのに時間がかかった。
じわりと涙が浮かび、目の前の景色がゆがむ。幸田久子の言う通り、好きな女の顔が浮かんだ。
兄から紹介された時の、はにかんだ表情。台所に立つエプロン姿。義理の弟である蓮に向けられる、親愛のまなざし。
義姉が好きだった。初めて会った時からずっと───。
「すんません、ちょっと便所行ってきていいですか」
声をかけられて我に返る。今週から入った夜勤業務の男性は、こうしてちょくちょくトイレに行く。一度行くと、十分は戻ってこない。サボっているのだとわかっていても、蓮から注意をすることはできなかった。
返事の代わりに小さく頷く。部屋を出る男性に聞こえないように、そっと鼻をすすり上げた。
