【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第13話
第13話
劇場の楽屋で、創は息をついて椅子に座り込んだ。ネクタイを緩め、ペットボトルの蓋を開けて水を一口飲む。
今日の舞台は悪くなかった。出番の三時間前から洋太と合流し、入念にネタ合わせをした。楽屋は大部屋なので、人が増え始めてからは、廊下に移動して何度も繰り返した。
「今日よかったやんか」
舞台から引っ込んだ途端、袖にいた同輩の一人からそう言われた。自分でも手ごたえがあった。
楽屋のモニターに舞台の様子が映し出されているのを見て、今朝のニュースで見た一条かれんの顔を思い浮かべた。保奈美と朝食を取っていた時だ。
『本日未明、住宅街の一角で火事が起き、焼け跡から遺体が発見されました』
アナウンサーがニュースを読み上げる。
『火は二時間後に消し止められましたが、この家に住む男性の行方がわからなくなっており、警察は発見された遺体の身元について詳しく調べています』
カメラがクローズダウンされた。コメンテーターである一条かれんと、元野球選手である男性が並んで座っている。創と保奈美はパンを食べる手を止めた。コマーシャルになる直前に、一条かれんの横顔がアップで映される。
画面が切り替わった。消臭剤を紹介する騒々しい声と音楽に、保奈美は我に返ったようにわずかに顔を上げてから、手にしたパンにじっと目を落とす。
「……チャコちゃん……」
独り言のように小さく呟いた。創もまた、昨日のことを思い出していた。
『カフェ・モカクリーム』の店主である女性は、意外な事実を教えてくれた。
「元はこの店の常連……だったんですか、その、一条かれんの友達という人は?」
保奈美が女性の言葉を繰り返して確認する。戸惑いながらも、「ええ、そうよ」と女性が頷いた。
「その常連の人と一条かれんが、一緒に住むために引っ越したっちゅうことですか」
創もまた念を押した。考えを巡らせる。
「ストーカーに遭うてたってことは、その友達っちゅうのは女性ですか」
男性がストーカー被害に遭うこともある。けれども話によると、一条かれんはその相手を心配して共に住むことまでしている。
「ええ、女の子よ。かれんちゃんとは確か同い年だったはず」
「常連さんっちゅうことは、一条かれんとその友達はこの店で仲良うなったんですか」
「いえ、そういうわけじゃなかったと思う。その子は寡黙で、ほとんど話さない子だったし……」
女性は話しながら首をひねる。
「ほな、なんでその子と一緒に住むほどの仲になったんでしょうか」
「さあ……それは知らないけど……」
戸惑った様子で、エプロンの紐の先を弄び始めた。ちらりと時計に目をやるその顔に、困惑の表情が浮かぶ。
「すみません、ご迷惑かもしれませんが、もう少しだけ教えていただけませんか」
保奈美が頭を下げた。「その人はどんな女性だったのでしょうか」
「どんなって……」
「その人の名前はご存じないですか。または写真とか……」
保奈美が店の壁に目をやる。店内にはいくつかのスナップ写真が飾られており、常連らしき客からのメッセージも添えられている。
「写真はないわ。名前もわからない」
女性が首を横に振った。
「特徴とか」
創が横から尋ねた。女性が顔を曇らせ、
「顔が……」
と呟き、手で口を覆った。それから慌てたように、
「勉強熱心な子だったわ。この店でもよくノートを広げてたの。引っ越す前にその子を連れてかれんちゃんが挨拶に来てくれて、その時に少しだけ話をしたんだけれど、ノンフィクションのライターになるのが夢なんですって」
言いながら記憶がよみがえったのか、女性は「あ」と言って目を瞠った。
「彼女、前に店で具合が悪くなっちゃったことがあるの。クリームブリュレの表面をバーナーで炙ろうとしたら、火力の調整が間違っていて、強い火が出たのね。そうしたら、青い顔してふらっと倒れちゃって」
まるでそこにまだ誰かが倒れているかのように、女性が床を見下ろす。
「小学五年生の時に火事にあったって言ってたわ。それで、火を見ると怖いことを思い出すんですって」
火事。創と保奈美の心に刻まれる。
「その女性の名前は……わからないんですよね」
最後に保奈美が確認する。すると女性は両手を合わせ、
「そう、確かチャコちゃんって。そう呼んでたわ、かれんちゃんが」
わずかにはしゃぐように声を弾ませる。
「『チャコちゃんケンちゃん』のチャコちゃんねって言ったら、『なんですかそれ』って笑われちゃったの。それで覚えてる」
「チャコちゃん……」
保奈美がじっと考えながら、小さく呟いた───。
「創」
名を呼ばれ、顔を上げると相方である洋太がすぐそばに立っていた。
「なんや」
「ちょっと」
洋太が廊下に向かって歩き始める。後ろからついていくと、
「これ」
人気のない廊下の隅で、洋太が封筒を差し出した。
「なんやこれ」
中には何枚かの紙幣が入っていた。創が眉を寄せ、
「なんや、これ」
重ねて尋ねる。洋太が口を開いた。
「昨日気づいたんだ。創が一人で出演したテレビの仕事のギャラまで、折半で振り込まれてるって」
悪いことをしているわけではないのに、洋太の真っ直ぐな目を受け止められず、創は下を向いた。洋太には内緒のまま、マネージャーに頼んだことだった。
「そういうもんやろ」
珍しいことではない。どちらかがピンでやった仕事も、ギャラはすべて折半にしているという先輩の話を耳にしたことがあり、それを真似したのだ。
「相方と揉めるやつは、たいてい金か女や」
そんな話を聞いた。それなら、すべて折半にすれば揉める原因はなくなる。
ただ、洋太にしてみたらプライドを傷つけられたかもしれない。ネタを書かない洋太は、創が過酷なロケで身をすり減らしている間は、アルバイト以外になにもすることがないのだから。
「受け取られへんってことか」
金を突っ返されると思ったら、胸が痛んだ。いよいよコンビとしての終わりを覚悟する。
「違うよ」
洋太はそう言って、創の手から封筒を抜くと、開いて創に中身を見せる。
「創のギャラを折半にするなら、僕のバイト代も折半にしないとおかしいだろ」
創は目を丸くした。洋太は真面目な顔で、「少ないけど」と創の手にもう一度封筒を押しつける。
「まさか、そう来るとはな」
言い終わらないうちに、息が漏れて鼻が鳴る。笑い出した創に、洋太もまた固く結んでいた口元を緩ませた。
