【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第1話
第1話
ホンマ大丈夫なんすか? この舟、むっちゃギシギシ言うてるやないですか。
まじっすか。こっから飛び込むんですか? いや、かんべんして下さいよ。
え? あの、せーのって……ちょ、ちょっと! やめてくださいよ!!
がくんと大きく身体が揺れる。必死でもがき、指先に触れたものを掴んだ。
「うおっ!」
どっと汗が噴き出した。心臓が激しく音を立てる。慌てて半身を起こした途端に片方の足がベッドから滑り落ち、バランスを失った身体ごと床に叩きつけられる。
「いてぇ」
腰がずきずきと傷む。電気のついた部屋の中は明るいが、カーテンの外は暗そうだ。ベッドサイドのデジタル時計が、十二時六分を表示している。
ここは自分の部屋だ。それはわかるが、どうやって寝たのかも覚えていない。
「あー、せやった……」
ローテーブルの上のコンビニ袋を見て、岡田創は呟いた。帰宅して重い身体をベッドに横たえたら、そのまま眠ってしまったのだ。
上着も脱がないまま、ずいぶんと意識を失っていたようだ。レジで温めてもらったはずの弁当はとうに冷めていた。
今日のロケはきつかった。河童伝説の残る場所で、ことわざ「河童の川流れ」を検証するという、目新しさのかけらもないテーマだった。
川に浸かって半日過ごした。北国の春の水は冷たい。芯から凍えた身体は用意されたシャワーを浴びても温まらず、アパートに戻る前に銭湯に寄ってきた。
近所にありながら、入ったのは初めてだった。昔ながらの銭湯で、壁に大きく富士山の絵が描いてあるのが気にいった。
空腹は感じていないのにわざわざコンビニに寄ったのは、もし腹が減った時に買いに出るのが面倒だと思ったからだ。冷蔵庫の中に食べられそうなものは入っていない。
ふと、天井がギシギシと音を立てていることに気づいた。そういえば目が覚めたのも、この音が耳についたせいだった。
またか──創は諦めて目を瞑った。上京し、この部屋に越して七年経つが、時おりこうして上の階からギシギシと振動が伝わってくる。
普段は生活音すら聞こえない。どうやら住んでいるわけではないらしく、数箇月に一度くらいの間隔で、女性を連れ込むために使っているようだ。
以前、中年の男が女性を連れて上の部屋に入っていくのを見たことがあった。女性は目鼻立ちのはっきりした美人で、スタイルも良かった。すれ違ってから振り返ると、腰のあたりがすこしふくよかでセクシーだった。そのあとで上階からギシギシと振動が伝わってきた時は、興奮する気持ちを抑えきれなかった。
くそ、世の中不公平やな。
昨日のことを思い出す。相方である平口洋太から、折り入って話したいことがあると呼び出されて喫茶店で話した。
「芸人、辞めようかって考えてるんだ」
コーヒーがすっかり冷めた頃、洋太が言った。
「なんでや」
予想はついていた。それでも尋ねた。
年末に行われる大きなお笑い賞レースで、必ず天下を取ろうと誓い合ってきた。けれども三回戦で敗退した。準々決勝まで行った前の年より悪かった。
ところが今年の初めに出演した深夜バラエティで、ベテラン司会者のいじりに対してがむしゃらにリアクションしたら、それがめちゃめちゃウケた。それ以来、創だけピンであちこちの番組に呼ばれるようになった。
トラウマになりそうなドッキリを仕掛けられたり、長時間の過酷ロケをさせられたり、どれも人権を無視したものばかりだ。大したギャラはもらえないし、もちろんネタなどやらせてもらえない。
ドッキリで求められるのは面白いリアクションではなく、人間性を試されるようなものばかりで、そのたびにメンタルを削られた。
それでも我慢してやってきたのは、この活動がいつか創と洋太のお笑いコンビ『そうしよう』にとっての夢の実現につながると思ったからだ。
「もともと、賞レースで今回ダメだったら、普通に就職しようかって迷ってたんだ」
洋太の言葉にムッとする。
「なんでやねん、オマエ。そんなん勝手やろ」
創の言葉に、洋太はしゅんと小さくなった。
創は会ったことはないが、洋太には昔からつき合っている彼女がいる。普通に結婚したいし、子供も欲しい。以前からそんな話を聞いていた。しかも相手の女性は年上だ。
『あほやな、売れたらそんなもん、なんぼでも新しい女に乗り換えられるで』
その時はそう言って笑った。そうするしかなかった。
「ごめん」
相方が頭を下げるのを黙って手で制す。「俺のせいなん?」という苛立ちの言葉をぶつける代わりに、「もうちょっと考えといてや」と低く返した。
わからんでもないよ、気持ちは。でも俺の気持ちだって、わかってくれたってええんちゃう。
天井のギシギシがさっきよりも大きくなってきた。耳を澄ませると、か細く泣くような女性の喘ぎ声も聞こえる。
創が苛立ちまぎれにテレビをつけると、同期の売れっ子芸人がスタジオで喝采を浴びていた。
かんべんしてくれや。
創はため息をついた。ワンルームの狭いキッチンスペースの床に、昨日実家から届いた段ボールが置いてあるのが目に映った。みかんの空き箱にぎっしりと、創の好きな食べものが詰まっており、一番上には母からの手紙が添えられていた。
『テレビ見てるよ! 忙しいだろうけど、身体に気をつけて頑張って下さい』
実家の両親を喜ばせてやれたことだけが、今の生活の唯一の利点だった。
