【小説】もうひとりの転校生 第14話
第14話
すっかり日が暮れた名古屋の街でタクシーを降りた。スマホを取り出して時間を見る。
警察というのは、なにかと面倒で時間がかかる。イベント会場は人の気配が消え、すっかり静かになっていた。
この際だから板野の盗難騒ぎはなかったことにしようと、俺と名古屋の支店長の間で話し合った。しかし当の本人がガンとして譲らない。むしろしっかり罪を償ってから再雇用されたいと、自首することを主張した。
今すぐにでも警察へ駆け込もうとする彼を押し留め、イベントが終わるまで待ってもらった。後片付けを後輩たちに頼み、俺は支店長と共に板野に付き添って出頭した。
警察官は最初は面食らったが、詳しく聞いて理解してくれた。なにせ盗難そのものは未遂に終わっているし、被害者が一緒に出頭して、情状酌量を訴えている。
注意だけに留めて、書面上には何も残さないでくれた。それでも思ったより時間がかかってしまった。
会場の中は、俺のいない間にすっかり様変わりしていた。企業のブースは片付けられ、人の姿もない。
うちの会社のスペースも、パーテーションを残して荷物はすっかり運び出されていた。段ボール一つ残っていない。
バックヤードへ行ってみると、小さな明かりがついていた。人影が動く。俺の姿を見て、瀬能はるかが椅子から立ち上がった。
「お疲れさまです」
「あれ、瀬能さんだけ。みんなは」
「みなさんは荷物を運び出して、その足で打ち上げに」
終わったら遠慮なく初めておいてくれと頼んだのは俺だ。全部の後片付けを後輩たちに丸投げにした、せめてものおわびだった。
「小島さんはこれを渡すために残ろうとしていたんですけど、ちょうどわたしが病院から戻ってきたので、代わりに預かりました」
手にしているのはあのスイムスーツだった。差し出した彼女の右腕には、白い包帯が巻かれている。板野の足にしがみついた時に、靴で蹴られて怪我をしたのだ。
左手にも包帯が巻かれている。勢いよく地面に倒れた時に、左手の指を捻挫した。頬にもガーゼが貼られている。靴が当たって擦りむいたのだ。
「お金、足りた? ごめん、そこまで気づかなくて」
「大丈夫です。わたし、しょっちゅう怪我するので、保険証は持ち歩いてるんです」
彼女が恥ずかしそうに笑った。白い包帯が痛々しい。
「病院代は俺に払わせてくれ」
「そんな。前田さんのせいじゃないのに」
彼女が慌てたように言う。
「いや、そんなことしかできなくて申し訳ないよ。怪我なら俺がすればよかったのに」
頬に貼られたガーゼに、胸が痛む。
「ごめんな、女の子の顔に怪我させて」
なんと謝っていいのかわからず、言葉を探していると、
「責任、取ってくれますか」
上目遣いに俺を見上げながら彼女が呟いた。
「……責任……」
言葉が重くのしかかる。どうすればいいんだ。
「今度、なにかごちそうして下さい」
彼女がくすりと笑ってそう言った。俺はほっとして息を吐いた。
「なんだ、そんなことか」
「連れて行ってくれますか」
もちろん、と言いかけて言葉に詰まった。今度とはいつだろう。その時、俺はもう同期の姿じゃない。
それを見て誤解したのか、彼女が慌てたように両手を振った。
「ごめんなさい、冗談です」
そのまましゅんと顔を曇らせる。まずいな。俺は慌てて話題を変えた。
「それにしても瀬能さん、すごいね。あんなにとっさに動けるなんて」
──そいつ、つかまえて! 泥棒だ!
俺の声に反応したのは、彼女一人だけだった。
「なかなかできることじゃないよ、足にしがみつくなんて」
彼女がちょっと恥ずかしそうに、
「実はわたし、護身術にテコンドーを習っていたことがあるんです」
胸を張った。蹴り技の真似をする。
「へえ、テコンドー」
「ええ、子供の頃に両親の勧めで。ちっとも上手にならなかったんですけど、それでも、習っておけばとっさの時に身体が固まらずに動けるからって」
「なるほどね。ご両親に感謝だな」
その反射神経は、今はまだ仕事に直結していなくても、きっとこの先の人生で生かせる場面があるに違いない。
「でも……」
彼女が呟いた。さらりと流れた髪を耳にかける。
「あの時『逃がさないで』って言ったのが前田さんだったから、動けたのかもしれません」
うん? どういう意味?
彼女は右手で左手の包帯をさすると、
「実はわたし、女子の中でちょっと浮いてたんです。でも今日、みんながすごく心配してくれて嬉しかった……」
瀬能はるかが怪我をしたと知るや、女子社員たちが一丸となって彼女を介抱した。捻挫した左手を氷で冷やし、名古屋市内の病院を調べ、一人がタクシーで病院まで付き添った。
「怪我の功名です。前田さんのお陰です」
彼女の笑顔に、
「いや、俺こそ瀬能さんに助けられたよ。クビにならずに済んだ」
苦笑いする。彼女はふと真剣な顔になると、俺の顔をじっと見上げた。
