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【小説】忘れえぬ女(ひと) 第1章 第3話

   第3話

  門をくぐり玄関の扉を開けると、奥から掃除機のやかましい音が響いてきた。土間に並ぶ靴に目をやると、兄以外はみな家にいるようだった。

 古い掃除機は音が大きく、かけている間は他の音がなにも聞こえなくなる。それなのに、玄関横の小さな和室では父がテレビを見ていた。大きな口を開けて笑うタレントの声は聞こえないはずなのに、父は画面に顔をじっと向けたまま小さく座っている。

 去年定年を迎えた父は、今年から嘱託で週に三日だけ駐輪所整理の仕事をしていた。それ以外はこの部屋でテレビばかり見ている。

 ダイニングへ行くと、音がいっそう大きくなった。義姉あねが履き出しの方を向いて掃除機をかけている。蓮はコンビニ袋から取り出したパンを食卓に置き、冷蔵庫を開けた。水の入ったペットボトルを取り出し、キャップを外した手で汗を拭ってから一気に飲む。気配を感じたのか、義姉が振り向いて飛び上がった。

「わっ、びっくりした。蓮くんおかえり」

 返事の代わりに小さく頷く。義姉は掃除機を止めると、

「こらー、あっくん。もうちょっとテレビから離れなさい」
 と両手を腰に当てた。

 夜勤明けの食事は、帰りにコンビニで買ってくる。義姉は用意すると言ってくれるが、その好意に甘えるわけにはいかない。朝食と昼食の間の中途半端な時間だ。

 蓮とは対照的に、社交的で如才ない兄が義姉と結婚したのは今から三年前だ。

 生活は一変した。男三人の味気ない食事、ほこりの積もった部屋、洗濯物の溜まった脱衣かご、洗面所にかけられた薄汚れたタオル───そういったものが跡形もなく消え、代わりに家中にいい匂いが漂うようになった。服からは柔軟剤の匂いがし、布団からはお日さまの匂いがした。食卓には毎日美味しい料理が並び、明るい声が響く。決して言葉に表すことはできなかったが、心の中で感謝していた。

 口下手は父譲りだ。父は無口で、気の利いたことが言えない。それどころか、女性と目を合わせることもできない。

 一方の兄は社交家で、子どものころから誰からも可愛がられていた。母に似たのだろう。母は明るく、人好きのするタイプだった。それが高じて、よそに恋人を作って出て行ってしまった。蓮が小学六年生の時だ。

 父と母がどのような経緯で結婚に至ったのか謎だった。正反対の性格を持つ二人が結婚したのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。

「はい、どうぞ」

 義姉がグラスを差し出す。アイスコーヒーが入っていた。お礼の代わりに小さく頷く。

 テレビから、幼い子供のための歌が流れていた。甥が興奮したように画面を叩いている。

「もう、しょうがないなあ」

 義姉が甥を後ろから抱きしめ、自分の膝の上に座らせた。腕の中で甥がうれしそうにもがく。

 ぞうさんのあくび、あーあ、あーあ
 ありさんのあくび、あーあ、あーあ

 義姉の歌う声と、甥の笑い声が重なる。

 古く錆びついたはずの記憶の蓋がずれて、中身が漏れ出す。鼻腔の奥に、同じように抱いてくれたかつての母親の匂いを感じたような気がして、慌ててグラスに口をつけた。コーヒーの香りを覆いかぶせる。

 残ったパンを急いで食べ終え、袋をゴミ箱に入れると、蓮は逃げるようにダイニングを後にした。

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