【小説】忘れえぬ女(ひと) 最終章 第2話
第2話
目を開けても、暗闇の中にいた。
額に浮いた汗を拭き、久子は手で目元を覆った。仰向けのまま、深く息を吸う。細く吐き出す。繰り返しているうちに、呼吸がちょっとずつ整ってきた。
嫌な夢を見そうになると、その前に脳が危険を知らせる信号を発し、眠りの中から自分を引っ張り上げてくれる。ただ、足元までひたひたと押し寄せる深い闇の感触だけは身体に残る。
十一歳の時に起こった火事の後、ひどい火傷と共に、フラッシュバックに苦しめられた。毎晩のように真夜中に泣きながら目を覚ます。けれども、長い時間が経つにつれて少しずつ回数が減り、落ち着いてきた。
それが高校を卒業する間際になって再び苦しめられるようになったのは、母が新しい恋人を家に連れてきたためだった。
家の中に見知らぬ男性がいる。姿を見るだけで、全身に鳥肌が立った。
「今さら結婚なんてしなくてもいいでしょ。外で会えばいいじゃない。なんで家に連れてくるの」
久子の訴えに、母は目を吊り上げた。
「家も夫も、お前が燃やしたんだろうが!」
母に殴打され、部屋に逃げ込んだ。安全な場所に隠れたい。けれども古いアパートの畳敷きの部屋は鍵もなく、母と男性の寝る隣の部屋とは、襖に隔てられているだけだ。
怖くて風呂に入れなくなった。夜も眠れなかった。眠ろうとするとフラッシュバックに襲われる。起きていてもやってくる。
高校に入ってから始めたアルバイトで、稼いだお金は母に半分渡していた。残ったお金と身の回りのものを持って家を出た。
保証人のいない未成年では、部屋を借りられない。ネットカフェで寝泊りした。朝になると制服に着替え、学校へ通う。勉強がしたいというよりも、金を払わなくてもいられる場所が他になかった。
ある日とうとうお金が底をついた。次のバイト代が振り込まれるまでまだある。
二日ほど路上で寝泊りしたが、限界だった。寒さで眠れず、誰かの足音がするたびに恐怖ですくみあがる。
ネットカフェに戻った。滞在していた時に、路地から入れる裏口があることに気づいていた。しかも鍵がかかっていないことが多い。
部屋がすべて埋まることはめったにない。夜間のアルバイトはカウンターの中でゲームばかりしている。目につかない奥のスペースに、夜の間だけこっそり忍び込めば、やり過ごせるかもしれない。
思惑通りに夜を過ごせた。けれどもうっかり寝過ごしてしまい、朝方にこっそり裏口から出ていこうとするところを、やってきたアルバイトに見つかった。
奥の事務所へ連れていかれた。もし警察に通報されたら───怒り狂う母親の顔が浮かぶ。
「俺、今から休憩な」
呼ばれてやってきた三十代くらいの男性は、腕を組みながら事情を聞くと、久子をじろじろ見ながら言った。
「まじすか。店長、物好きですねえ。なにもこんな……」
若いアルバイトの男が久子の顔をちらりと見て、そのまま部屋を出ていった。店長と呼ばれた男が立ち上がり、内側から鍵をかける。
久子の奥歯がガタガタと音を立てた。体中に鳥肌が立った。
「警察や家に連絡されたら困んだろ」
言いながら、店長が久子の正面に座った。ベルトを外し、チャックを下ろす。
「わかるよな?」
久子は息を呑んだ。このまま、自分の舌を噛み切って死ぬ。そうすれば、なにもかもから解放される。
「別にいいんだぜ、警察に連絡しても」
店長が言った。久子は椅子から立ち上がり、店長の前に跪く。下着に手をかけると、店長が自ら腰を上げ、ズボンと下着を膝まで下ろした。
「口でやるんだよ」
手でこすっていると、店長がそう言って顎をしゃくった。久子は恐る恐るそれを口に含む。
何度も嘔吐しかけながら、こまごまと発せられる指示に従っていると、やがて店長は言葉少なになっていき、
「ああ……」
と喘いだ。久子の喉の奥がくつくつと震えた。鼻から声が漏れる。
「おまえ感じてんのかよ。変態だな」
頭上から呆れた声が降ってきた。それでも、久子の笑いは止まらない。
この男は、こんなにも無防備に急所を晒している。久子が渾身の力で噛みちぎらないとも限らないのに。自分の舌を噛み切るよりも、よほど簡単なのに。
これまで抱いていた恐怖が、波が引くように消えていく。ちっとも怪物なんかじゃない。ちっぽけで馬鹿馬鹿しい男たち。
「お金、払ってよ」
口の中のものを吐き出してから、久子が立ち上がって言った。チャックを上げていた店長が久子を振り返る。
「ネットカフェの代金を差し引いたお金。風俗に行くのに比べたら、おつりが出るでしょ」
店長が眉を寄せる。その顔を見下ろした。
「未成年に性的暴行をしたって、店や警察にばれたら、そっちの方がヤバいんじゃないの」
脅迫。罪悪感はなかった。これで今夜の宿代が手に入ると思ったら楽なものだ。
店長は笑い出した。そして、改めて久子をじろじろと眺めた。
「わかったわかった。払ってやる。そんで、いいところ紹介してやるよ。俺の知り合いで、映像をやってるやつがいるんだ。お前のこと、面白がって使うかもしれない」
そう言って、店長が自分の唇を舐めた。
「風俗よりもだんぜん稼げるぜ」
