【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第32話
第32話
「ほな、気をつけてな」
高速バスの停留所には長い列ができていた。保奈美は初めて会った時と同じ制服姿で、大きな旅行バッグを肩にかけている。
「本当にお世話になりました」
保奈美が頭を下げた。創の胸がちくりと傷む。
「ホンマに大丈夫なんか」
創の言葉に、保奈美がうつむいた。
幸田久子との接見で、一条かれんからの最後の手紙を読み終えた保奈美は、ハンカチに顔をうずめて泣き続けた。
創もまた、誰もいない壁の方を向き、何度も鼻をすすり上げた。
「母が、亡くなったんです……」
保奈美がぽつりと呟いた。
一条かれんが家を出てから数年後、保奈美の両親は離婚した。
「結局、父は母の過去への嫉妬を捨てられませんでした」
その後、保奈美の母は病気になり、日に日に心まで弱っていった。亡くなる前はうわ言のように、
「お姉ちゃんに謝りたい」
と繰り返していた。けれども姉の所在はわからず、連絡を取ることはできなかった。
母を亡くした保奈美は、父のもとに引き取られることになった。父は既に再婚し、新たに子供も生まれていた。
「制服は持ってこいよ。新しいものは買ってやれないかもしれないから」
母の葬式にすら顔を出さなかった父は、電話口でそっけなく保奈美に言った。
葬式が終わり、身の回りのものをバッグに詰めた保奈美は、制服姿のまま父の住む町とは正反対の東京へ向かった───。
「母の最期の気持ちを姉に伝えて、そのまま自分もこの世から消えようと思ったんです……」
保奈美の肩が震える。
その時だった。幸田久子が透明の板の向こうから、保奈美に向かって両手を伸ばした。
「お姉さんを……」
言いかけて、喉の奥が貼りついたように声が詰まる。
「お姉さんを、守れなくて、ごめんね……」
幸田久子の目から涙があふれた。透明な板に顔を寄せる。
「でも、お願い。死なないで」
椅子から腰を浮かした幸田久子を、係の人が制した。しかし彼女は保奈美の方へ身体を乗り出す。
「生きて! お願い! 死なないで生きて!」
係の人に押さえつけられながら、幸田久子が叫ぶ。
「あなたはあの子の、たった一人の家族なんだから!」
保奈美も立ち上がった。
「久子さん! 久子さんも死なないで下さい!」
椅子の足に引っ掛かり、保奈美がつんのめる。創がとっさに手を伸ばし、保奈美を支えた。
「久子さん、復讐が終わったら死ぬつもりだったんじゃないですか。そうでなければ、こんな……」
保奈美が喉を詰まらせた。幸田久子が嗚咽を漏らす。これまでの苦しみを吐き出すように───。
高速バスがバス停に停まった。列が動き出す。座席指定のチケットを持つ保奈美は、創と共に列から離れた。発車まであと七分ある。
「ありがとうございました。創さんのおかげです」
保奈美が深く頭を下げた。創は首を振る。
「ずっときみの姉さんにお礼がしたいって思てたんや」
保奈美は創の顔をじっと見上げた。
「姉のこと、ご存じだったんですね」
「いっぺんだけ、会うたことがあるんや」
二年前、お笑い賞レースの予選会場へ向かう時だった。緊張と興奮で朝方まで眠れなかった創は寝坊してしまい、慌てるあまり財布とスマホを忘れて家を飛び出した。それに気づいたのは、バスに飛び乗った後だった。
「すんません、あの、これからどうしても行かなアカン大事な用事があるんです。絶対絶対帰りに払いますから」
必死で運転手に頭を下げていたら、
「あのぅ」
背後から女性の声がした。
「この方とわたしの、二人分の清算でお願いします」
驚いた創がなにも言えないでいるうちに、運転手が手元で機械を操作し、女性がICカードをかざす。「はい次の人」と運転手に促され、創は女性と共にバスの奥へ進んだ。
「ホンマすんません、助かりました。お金はお返しします。連絡先を……あっ、スマホないんやった」
慌てる創に、
「いいんですよ。それよりもお財布がないなら帰りのお金も」
と女性が鞄を開こうとする。
「いやいや! このあと相方に会うんで、そいつから借ります」
創の言葉に、
「そうですか、よかった」
女性がほっと息をついた。
むっちゃええ子やな。ほんで、よく見たらむちゃくちゃ可愛いやん。
「今からお笑いの賞レースの予選なんすよ。せやのに寝坊って最悪ですよね」
創が頭を掻くと、女性は両手で口元を隠し、
「実はわたしも、今から映画のワークショップに行くところなんです。いいことしたから、神様がギフトをくれるかも」
秘密を打ち明けるように言った。
「せやったんですか。ほな、絶対受かりますよ」
「そしたら、わたしこそお礼をしないと」
そう言って女性はいたずらっぽく笑った。創の胸がじんと熱くなる。
俺に気ぃ遣わさんとしてくれて。ホンマにええ子やな。
次の停留所を告げるアナウンスに、女性がボタンを押した。
「わたし、ここで降りますね」
「ほな、頑張って下さい」
「はい、お互いに」
降り口に向かう女性に、創が声をかけた。
「あの、すんません。名前を教えてもらえませんか。あっ、俺は岡田創って言います」
女性が振り返り、微笑んだ。
「わたし、一条かれんって言います」
奇跡の出会いや。こんなん、ドラマやん。
「もしお互い成功して、いつか再会できたら、そん時はむっちゃ高い料理をご馳走します!」
バスが速度を落とす。創は必死に言った。
「はい、楽しみにしています」
かれんは笑顔で目礼すると、バスを降りて行った───。
「テレビの一条かれんと、あの日の彼女が、俺の中でどうしても一致せえへんかった」
その答えは、もし保奈美に会えなかったらわからずじまいだったかもしれない。
「姉らしいです」
保奈美は両手で口を覆った。指先で涙を拭う。
「もう乗らんと」
高速バスがエンジンをかけた。保奈美がバッグを抱え直す。
「……ホンマに大丈夫なんか、お父さんの家……」
新しいものを買ってもらえず、同級生たちと一人だけ違う制服で通学する保奈美の姿を想像して、胸が塞ぐ。保奈美はわずかに顔を曇らせたが、やがて力強く頷いた。
「大丈夫です。久子さんが約束してくれましたから」
弁護士の多岐川を通して、久子のメッセージが届いたのは昨日だ。
『ここを出たら迎えに行くから、そしたら一緒にお姉さんを待とう』
「せやな」
創は目を細めた。一条かれんの遺体は発見されていない。多岐川の助けを借り、保奈美が警察に捜索願を出したが、ここ二年の間に発見された遺体の中に該当しそうなものはなかった。
彼女はもしかしたら死ぬことをやめたかもしれない。どこかで別人として生きているかもしれない。
「俺も信じてみるわ」
バスに乗り込んだ保奈美が、座席にカバンを置き、大きな窓に手をかけた。こじ開けようとしている。
「しんどかったら連絡せいよ! いつでも逃げてこい!」
エンジンの音に負けないように叫んだ。保奈美が手の甲で涙を拭いながら、もう片方の手を窓の隙間から伸ばした。
「創さんありがとう! 創さんと出会えてよかった!」
バスが発車する。排気ガスを避けて後ろに下がると、保奈美の姿は瞬く間に見えなくなった。
『はい、楽しみにしています』
最後に会った一条かれんの姿が蘇った。華奢な背中が遠ざかる。
女を見送るのは苦手やわ。むっちゃ寂しいやん。
熱いアスファルトからゆらゆらと陽炎が上る。額に手をかざし、その向こうに遠ざかっていくバスを眺めていた。
