【小説】忘れえぬ女(ひと) 第1章 第7話
第7話
外灯の淡い光を頼りに、ポケットから取り出した鍵を玄関の穴に差し入れた。シリンダーが回転して錠が開いた手ごたえを感じ、蓮は静かにドアノブを回す。
今日の午後、工場からの連絡で寝ているところを起こされ、急な病欠で人が足りなくなった夕方業務のピンチヒッターを頼まれた。急いで駆けつけ、いつもより五時間早く作業に入った。
ぶっ続けでそのまま夜勤の業務をする。眠さと疲労で気が遠くなりかけた頃、やっと社員が来て交代してくれた。原田は気に入らない様子で、「お疲れさまです」という蓮の言葉に顔をそむけた。
終電の一本前で帰路に着いた。家の者を起こさないように、足音を立てずに台所へ向かった。帰り道に買ったコンビニ弁当が、ビニール袋越しにほんのり熱を伝えていた。空腹すぎて腹が痛い。
手探りでダイニングの明かりをつけた。その瞬間、ガタンと音がしてさっと人影が動いた。蓮が飛び上がると、相手もまた驚いて飛び上がった。
義姉だった。自分をかばうように片腕を身構え、もう片方の手でスマホを握りしめている。
「あ……、蓮くん。お帰り」
義姉はこわばった顔を崩し、その一方でさっと片手を後ろに隠した。
「びっくりしたぁ。今ね、なんだか目が覚めちゃって、そしたらお鍋の火をちゃんと消したかなって不安になって、確認にきたの」
なにも聞いていないのに、義姉が言い訳をする。
「電気くらいつければ」
蓮が小さく呟いた。しかし義姉はまるで聞こえなかったかのように、
「もう、蓮くん、音もなく帰ってくるんだもん。すごいビックリしちゃった。泥棒かと思ったよ」
笑いながらそう言い、腰を落として鍋とコンロの隙間を見ながら火をつける。
「今から食べるなら、お味噌汁も飲むよね? 今日はお豆腐とネギとジャガイモだよ」
不自然なくらい明るい声で、「他にもおかず残ってるから、温めるね」と冷蔵庫へ身体を向けた。
「いいよ、みそ汁だけで。弁当買ってきたから」
蓮が義姉の背中に声をかける。
「そう? わかった」
肩越しに笑顔を見せると、義姉はおたまで鍋をかきまぜた。そうしながら、左手に持っていたスマホをさっとポケットに入れる。
「はい、どうぞ」
温かい湯気の上る椀を差し出され、蓮は礼の代わりに小さく頷いた。
「それじゃ、ごめんだけどわたしはもう寝るね。お椀は洗わなくていいから、流しに置いといて。おやすみー」
義姉が台所から出ていった。蓮は弁当を包むビニールを破り、割り箸を取り出す。
義姉が手にしていたスマホが気になった。一瞬だけど見えた色は、カバーも本体も黒だった。義姉のものではなく、おそらく兄の───。
真夜中のダイニングにぽつりと座っている姿が蘇る。小柄な女性の背中。義姉ではない。母だ。
『もう、ワガママ言わないで。こんな時間に無理よ』
あれは小学生の時だった。夜中に目が覚めて尿意を感じ、明かりもつけずに階段を下りていった。ダイニングから聞こえてきた母の声に、思わず耳をそばだてる。
『だって、子供がいるし』
母は電話をしていた。口元に手を添え、声をひそめて話している。
『あたしだって本当は今すぐ会いたい』
甘えるような声に驚いた。電話の相手は誰なのだろう。心臓がどきどきして、立っていられなくなった。慌てて布団へ戻った。尿意は引っ込んでいた。
それから数年後に家を出た母が向かったのは、あの時の相手だったのだろうか。家族が減って静かになった家で、考えるのはそのことばかりだった。
もしそうだとしたら、自分はなぜあの時なにもできなかったのか。母から電話を取り上げ、無理やり切っていればよかった。そうすれば母は今でもこの家にいたかもしれないのに。
父や兄にも言えなかった。責められるかもしれない、恨まれるかもしれない。本気でそう思っていた。これ以上、自分の居場所がなくなることを恐れた。
記憶の中の母の面影に、兄が重なる。蓮は父譲り、兄は母譲り。幼い頃、親戚からはよくそう言われた。そして、兄のスマホを握りしめる義姉の険しい顔──。
頭から振り払い、蓮は味噌汁に口をつける。ジャガイモの溶けた優しい味がした。
