【小説】忘れえぬ女(ひと) 第2章 第4話
第4話
「あれ、ブーちゃん。今帰り?」
仕事を終えて更衣室に向かうところで課長の上田とはち合わせた。
「請求書の数字、ちゃんと直しておいてくれたかな? それから現場に提出する報告書のデータ、揃ってる?」
風花より一回りほど年上の上田は、年齢を感じさせない若々しさがある。清潔感と色気を両方兼ね備えており、既婚者ながら若い女子社員たちに人気があった。
「両方終わってますよ。上田さんの机の上に置いてあります」
風花の答えに、上田は満足そうに頷いた。
「さすが。相変わらず仕事早いね」
「小回りの効くデブなんで」
おどけてポーズをする。上田が笑った。
「悪かったね、引き留めて」
「そうですよ、これからデートなのに。遅刻してフラれたら、上田さん責任取って下さいね」
風花の言葉に、上田は手を叩いて笑い出す。冗談の続きだと思われたのだろう。『デート』と『ブーちゃん』は最も結びつかないワードのうちの一つだ。
地下鉄の最寄り駅のホームは空調が効いておらず、風花の全身から汗が噴き出した。まだ初夏だというのに。風花は流れる汗をハンカチで拭った。もうすぐデブにとって最も苦手な、本格的な夏がやってくる。
目当ての駅で降り、改札を出て辺りを見回した。相手の姿は見当たらない。
スマホを開き、到着を伝えた。しかし既読がつかない。五分ほど待った後、風花は歩き出した。
駅を出るとすぐに商店街の入口がある。横には交番があり、その手前に鍼灸院の広告が印刷された金属製のベンチがあった。買い物に疲れたお年寄りなんかが休むのにちょうどいい。
誰も座っていないベンチに腰を下ろし、はす向かいの建物を眺めた。看板のネオンがちかちかと点滅している。人の出入りで自動ドアが開くたびに、中から騒がしい音が漏れた。
二十分ほど経った頃、ようやく一人の男性が背中を丸めて出てきた。サンダル履きの摺り足で、上下ともスウェット姿だ。まるでさっきまで家で寝ていたように、頭もぼさぼさだった。
風花はそっと立ち上がり、背後に忍び寄る。その腕に自分の腕を絡ませた。男が驚いて振り返る。
「びっくりした?」
風花がはしゃいで言った。
「悠くん、きっとパチンコだろうと思って、出てくるの待ってたの」
「恥ずかしいからやめろよ」
悠作は遅刻を詫びることなく、腕を振りほどく。
恥ずかしいのは、人前でベタベタすること? それともデブな彼女がいること?
「ごめんごめん」
一瞬頭に浮かんだ疑問を打ち消し、風花は笑いながら離れた。沁みついた煙草の匂いが鼻をかすめる。
「勝ったの?」
機嫌を取るためにそう尋ねた。悠作はたちまち口元を緩ませる。
「最初は全然かからなくてさ、台を変えようと思ったら急に確変かかって、そこからは怒涛の七連勝。それが終わったらまた四連勝だぜ。止まんなくて止まんなくて、マジでヤバかった」
珍しく饒舌だ。よほど機嫌が良いらしい。
「途中で、遅れるって連絡してくれたらよかったのに」
風花が拗ねた口調で言うと、悠作は途端にムスッとして、
「止まんなかったんだからしょうがねえだろ」
口をとがらせる。
「ごめんごめん。そうだよね」
せっかくの機嫌が損なわれてしまう。風花は慌てて、
「今日は懐あったかいんだ? じゃあ、悠くんのおごりね」
わざと甘える声を出す。悠作は名誉欲をくすぐられたのか、
「ざけんな」
と呟いて歩き出した。その口調で、まんざらでもない様子が伝わる。風花はわざと数歩遅れて、悠作の後ろをついて行った。
