【小説】忘れえぬ女(ひと) 最終章 第5話
第5話
湯舟に身を沈める。すっかり冷めているが、夏だからちょうどいい。背中を丸め、泳ぐように水の中で手をかいた。
久子は自分の胸を見下ろした。またちょっと大きくなった気がして、顔をしかめる。
五年生に進級して、これまでつるりとしていたはずの場所に毛が生え始めた。それよりも少し前から、触ると胸が痛むようにもなっていた。
「やだなぁ」
母に訴えた。やだな、なんで痛くなるの。これから大きくなっていくのよ。やだなあ。なんでよ。だって……邪魔だもん。
父が仕事に行く回数が減った。平日なのに家にいることが増えた。その代わりに、母が遅い時間に働きに行くようになった。久子が学校に行っている間に仕事に行き、寝ている間に帰ってくる。
ある晩、車の音で目が覚めた。起き上がって窓の外を見ると、酔っぱらっているのか、ふらふらした足取りの母が、男の人に支えられて玄関に向かうのが見えた。慌ててカーテンの陰に隠れた───。
久子は湯舟のお湯をすくって顔にかけた。ずっと前から母に打ち明けたいことがあるのに、一体いつ言えばいいのだろう。久子が学校から戻った時には母はいないし、朝は寝ている。そして、父はずっと家にいる。
今日はせっかく蓮の家で遊んでいたのに、父が迎えに来た。久子が蓮と遊ぶことを、父があまり良く思っていないことを知っている。
父と共に外食から戻った後、久子は自分の部屋で一人で過ごした。
「お風呂に入りなさい」
父に言われても、「わかった」と答えたまま部屋から出なかった。十一時を過ぎた頃、トイレに行ったついでにこっそりリビングを覗くと、焼酎の瓶と中身の入ったグラスがテーブルの上に置かれたまま、父はソファでひっくり返って寝ていた。久子は急いで下着とパジャマを用意すると、足音を忍ばせて風呂に向かった。
久子の胸が膨らみ始めてからも、父は久子を膝の上に乗せたがり、テレビを見るふりをしながら身体を触ってきた。
「痛い」
胸を触られた時にそう抗議した。それでもやめようとしない父に、重ねて文句を言うのが怖くなった。風呂に入っていても、一緒に入ろうとやってきて、久子の返事を待たずに服を脱ぐ。
───誰にも言えない。
久子ははっとして顔を上げた。ぐずぐずしていると、また父が入ってくるかもしれない。
その時だった。明かりが消え、目の前がふっと暗くなった。突然のことに瞳孔が追い付けず、視界が完全に遮断される。
恐怖のあまり、悲鳴が喉に貼りついた。少しずつ目が慣れてくるのを待って、自分の手のひらを探した。
「久子、大丈夫か」
父の声がした。湯船から立ち上がりかけた身体を、慌てて沈める。
「なんか、ブレーカーが落ちちゃったみたいだよ。今、懐中電灯持ってくるから」
言葉の内容など耳に入らない。恐怖で失禁しそうだった。誰か助けて。誰か。
耳を澄ませるが、なにも聞こえない。父は遠くへ行ったのか。久子は静かに湯舟から出ると、手探りで風呂場のドアを開けた。バスタオルを掴み、身体を覆った。奥歯がガチガチと音を立てる。
バスタオルで前身を押さえたまま、下着の入っているはずの籠を探す。その時、暗闇から伸びてきた大きな手が、久子の身体を羽交い絞めにした。
「やっ!」
大きな声は出なかった。喉の奥が塞がる。床の上に組み倒され、大きな身体がかぶさった。目を見開いても真っ暗で何も見えず、意識が遠のきかける。荒い息づかいと酒臭さが現実に引き戻す。
久子にとって果てしなく長い時間が過ぎた。やがて父が身体を起こし、暗闇の中に消えていく。久子は手に触れたバスタオルを引き寄せた。奥歯だけでなく、体中がガチガチと震えていた。
震える指でパジャマのボタンを留めているうちに、嗚咽が漏れた。涙が止まらない。体中のあちこちが痛かった。
脱衣所から廊下に出ると、主寝室の扉が開いていた。身をすくめたが、そこから大きな鼾が聞こえてきた。恐る恐る中の様子を伺うと、父はベッドに大の字になって眠っている。
廊下の反対にあるリビングの扉も開いており、テーブルの上にはグラスと焼酎の瓶がそのまま置かれていた。久子はテーブルの上にある別のものに気づいた。目はすっかり暗闇に慣れて、窓の外から差し込む外灯の明かりだけで像を結べるようになっていた。
ガラス製の大きな灰皿と、煙草とガスライターがあった。
久子は震える手でガスライターを手にした。車輪状のやすりを回転させる。鈍い音がしただけで、火は出ない。
もう一度強くこすった。小さな火花が散っただけだった。もう一度。柔らかい親指が痛む。
やがて火がついた。久子は手を離し、それをカーペットの上に落とした。しかし炎はカーペットの上で小さな円を作るだけで、勢いは弱くなっていく。
久子はテレビの隣の小さな引き出しを開けた。ガスライターの詰め替えが入っている小さなボンベを取り出し、炎の上に投げ入れた。
しかしボンベは転がるだけで、新たな炎を生み出そうとしない。久子はガラス製の重い灰皿を手に取り、大きく振りかぶった。ボンベに向かって叩きつける。
ガツンという音は、カーペットのおかげであまり響かなかった。へこみのできたボンベの上に、久子はもう一度灰皿を叩きつける。プラスチック製のノズルが折れた。
久子は思い切り振りかぶり、ボンベに向かって灰皿を振り下ろした。次の瞬間、炎が勢いよく上がり、久子に襲いかかった。
「きゃあああああああ」
顔を抑えて久子は転がった。両手で顔を叩く。袖に火が燃え移った。
手で炎を叩いた。顔が痛い。体中が痛い。
玄関に向かって走った。お母さん、お母さん、お母さん……。泣きながら呼び続ける。
「お母さん!」
自分の声で目が覚めた。顔中が涙で濡れている。横隔膜が震え、息をするたび音が鳴る。
「幸田さん、大丈夫ですか?」
一条かれんが久子の隣に膝をつくと、手にしたタオルを久子の顔に柔らかく当てた。涙と汗が吸い込まれていく。久子は小さく頷きながら、タオルを受け取った。
「さっきから苦しそうで、起こした方がいいかなって思ってたんですけど」
かれんがそう言って、コップに入った水を差しだした。受け取って口をつける。一口飲むと、呼吸が落ち着いてきた。
「ありがとう……」
そう言ってかれんの顔を見る。心配そうな表情には、久子の顔を嫌悪する気配がひとつもない。
「ちょっと怖い夢を見たの」
そう言って咳ばらいをした。喉の奥に痰がからんで、おかしな声が出た。
『もしよかったらですけど、今夜うちに泊まりませんか?』
そう言った時のかれんの顔に、蓮の顔が重なった。
『チャコ、今日、うちに泊まってけば?』
運命が変わったあの日、蓮が言ってくれたあの言葉───。
『えっ、いいの? ホントに泊まりたい!』
『だめだよ。そんなことしたらご迷惑だろう』
『別に迷惑じゃないよ。俺、チャコとゲームの続きやりたいし』
『ねーいいでしょ。お願いお願い、一生のお願ーい!』
『うちはかまわないですよ。チャコちゃんとお父さんさえよかったら』
『やったー!』
頭の中で何度も繰り返された妄想は、悪夢を遠ざけるおまじないであると共に、久子にとっての生きるよすがだった。
「あっ」
かれんが慌てたようにタオルを手にした。とめどなく流れる久子の涙にそっと当てる。
「あの、わたし、ここにいないほうがいいですか?」
かれんが遠慮がちに尋ねる。
「もし、一人でそっとしておいて欲しいなら……」
言い終わらないうちに、久子が静かに首を振った。
「ここにいて」
母にも言えなかった子供のような甘えを、まだ知り合ったばかりの相手になぜ投げかけているのだろう。
顔が崩れてから、誰も久子に触れようとしなかった。怪物を見るような目つきで、離れていくばかりだった。母でさえ。
「はい」
かれんが微笑んで頷き、久子の手に自分の手を重ねる。
久子の目に新たな涙があふれる。けれどもそれは、悲しいだけの涙ではなかった。
