【小説】忘れえぬ女(ひと) 第2章 第1話
第1話
「ブス、おい、ブス!」
耳のすぐ近くで誰かが怒鳴った。
鼓膜が痺れたようになり、椅子から転げ落ちそうになる。赤羽風花は耳を抑えて振り返った。一人の男子がにやにやしながらこちらを見ている。
「呼ばれたらさっさと返事しろよ、ブス」
クラスメイトの横田だ。成績も悪く、大きな態度を取っているけれど小柄で、女子や大人しい男子などの弱い相手しか攻撃できない。
六年生だというのにまだ変声期もきていない甲高い声で、小型犬のようにキャンキャン吠える。おかげで風花はクラス全員の視線を浴びていた。
「ブス? ブスってどこ? このクラスにブスなんていたっけ……あっ、わたしかぁ!」
おどけて言い、ついでに変顔をする。クラス全体がどっと沸いた。教室の後ろの方で、仲の良い男子たちと一緒に机に腰かけた五十嵐くんが笑っているのを目の端に捉え、風花は誇らしいような恥ずかしいような気持ちになる。
笑い声には風花を讃える響きが含まれていた。横田は旗色の悪さを感じ取ったのか、
「『おはようテスト』の丸つけ、ちゃんとやっとけよ!」
悔しそうに言い、プリントの束を床に叩きつける。散らばったそれらを拾おうと腰をかがめると、
「ひどーい。横田。サイテー」
「なんでブーちゃんに押しつけんの? あんたも日直でしょ」
女子たちが口々に言いながら集まってきた。囲まれた横田は、一番近くにいた女子に肩をぶつけながらぷいと教室を出ていく。
「いったーい」
「大丈夫? 横田ってホントに最低だよね」
共通の敵がいると、女子たちは強固に結束する。
「あっ、ブーちゃん。それ手伝ってあげる」
朝自習の時間に毎日やっている漢字の小テスト、通称『おはようテスト』を女子たちが分け合った。
ブーちゃんというのは風花のあだ名だ。赤羽風花──小鳥のように小さく、風に飛ばされる花びらのようにたおやか。そんな名前のイメージとは正反対に、小さなころから肉づきが良かった。四年生を過ぎた頃にはもう、ぽっちゃりを通り越して『やや肥満ぎみ』になった。
最初は『フーちゃん』だった愛称が、いつからか『ブーちゃん』になった。男子たちは『ブー子』と呼び、ひどい時は『ブータ』『ブス子』と変化することもある。
「ブーちゃん。そのバケツ貸して」
ある時、五十嵐くんが掃除の時間に風花に向かってそう言った。彼が風花の手からバケツを受け取り、廊下の向こうへ走っていく。その瞬間、『ブーちゃん』というあだ名は市民権を得た。男子たちもそう呼ぶ。一部の、横田のような男子を除いて。
風花にとっても特別なあだ名になった。たとえ『ブー』だとしても、あの五十嵐くんから『ちゃん』付けで呼ばれることはとてつもなく光栄なことだ。
「ブーちゃん、はい。できたよ」
「ついでに配るのも手伝うね」
女子たちはみんな親切だ。風花の容姿とキャラクターのおかげだろう。
ブーちゃんは太っているけど、面白くてクラスの人気者。誰のライバルにもならないから、嫌われる理由はひとつもない。
その処世術は、二十三歳の社会人になった今でも健在だ。
『赤羽風花です。名前のイメージと顔が一致しないので、ブーちゃんって呼んでください』
会社に入った時、自己紹介でそう言った。おかげで、職場の人間関係は良好だ。
