【小説】もうひとりの転校生 第6話
第6話
「本当にすみません……」
明かりを半分落とした薄暗いバックヤードで、瀬能はるかがしゅんと肩をすぼめた。
「いいって。それよりも早くやっちゃおう」
俺はワイシャツの袖のボタンを外し、腕まくりをした───。
あの後すぐに、名古屋の支店長がパンフレットの在庫を車で運んでくれた。ついでに社名の入った封筒も一緒に。
瀬能はるかを含めた三人の若手に、明日の来客者に配るための資料の作り直しを頼み、俺は残りのメンバーを連れて、国際スポーツ大会の開催者である公共団体のところへ挨拶へ伺った。続いて得意先に挨拶回りし、そのまま軽い食事会を済ませると、ホテルの部屋に戻ってきた。
ネクタイをゆるめたところで、ふと心配になった。資料の作り直しを頼んだ若手の一人に連絡を取るが、つながらない。作り終えたという報告もないままだ。
まさかまだやっているのかと、タクシーをつかまえて会場へ向かった。中にはほとんど人がおらず、うちの社のブースは無人だった。バックヤードへ行ってみると、薄暗い中で瀬能はるかが一人で資料を作っていた。
「瀬能さん、一人?」
声をかけると、彼女はびくっと飛び上がり、俺の姿を見て泣きそうになった。
「どうしたの、他のやつらは」
「あの、お腹すいたから、ちょっとコンビニで食べ物を買って来るって……」
「それって、いつの話?」
「……夕方です」
バックレたか……俺はため息をついて、二人の顔を思い浮かべた。資料の作り直しを頼んだ時、かなり不服そうだった。無理もない、本来なら一緒に食事に行って、会社の金で美味いものを食べていたはずだったのだから。
「じゃあ、ずっと一人でやってたの」
「いえ、いいんです。わたしのせいなんですから」
彼女が鼻を啜った。まるで居残りの生徒のようだ。
「じゃあ、さっさとやっちゃおう」
上着を脱いで椅子にかけた。彼女が目を丸くしてから、慌てて首を振る。
「いえ、いいです。一人でやります!」
「いいって。ここまで来たんだし、今さら帰れないよ」
二つ机を並べた。プリンターが新商品のチラシを吐き出す。彼女が閉鎖された支店名と連絡先を修正テープで覆い、俺はできあがったそれらをまとめて封筒に入れていく。
「ほら。二人でやった方が、能率がいいじゃん」
隣のテーブルから明るく声をかけた。それぞれに作業をしていると、
「……前田さんって……」
彼女が呟いた。
「本当は、優しいんですね」
思わず手が止まる。彼女は慌てたように、
「あ、ごめんなさい。本当は、だなんて」
両手で口元を覆った。
「わたしの至らないところを指摘して下さる時はいつも厳しい言葉なので……あの、それはとても感謝しているんですけど」
言いながら、彼女がしゅんと小さくなる。
ああ、と俺は曖昧に答えた。「ごめんね、いつもキツイこと言っちゃって」
なんで俺が同期の代わりに謝らなきゃいけないんだ。
「いえ。でも、いざと言う時はこうやって助けて下さるんだって思いました」
そう言って、彼女が恥ずかしそうに口をすぼめた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げられ、
「いやいや……俺なんてなんも」
返答に困って鼻を擦る。
「わたし本当に、昔から失敗ばかりで。いつもみんなをイライラさせちゃって……」
言っているうちに感情が高ぶったのか、また涙目になっている。
学業優秀なのは努力のたまものか。こんだけ可愛いんだから、もっとあざとく生きればいいだろうに。
「本当は、せっかく入れたこの会社で、みなさんのお役に立ちたいと思っているんですけど……」
「できるよ、瀬能さんなら。大丈夫だよ」
鼻を啜り上げる彼女に、俺は笑った。
「そんなこと言ったらさ、新人のころは誰だって失敗するよ。俺から見たら、小島だって川瀬だって新人のころはひどかったぜ」
彼女が鼻を抑えながら、大きな瞳でじっと俺を見上げた。
「俺なんてさ、電車の網棚に大事な契約書を乗せたまま、なくしちゃったことあるんだから」
新人時代の黒歴史だ。
「めちゃめちゃ怒鳴られたよ。お前なんかクビだって」
あ、そうだ。これは同期じゃなくて、俺の失敗だった。まあ、いいか。
「それに比べたら、きみの失敗なんて可愛いもんだよ。気にすんなって」
彼女がふっと笑った。涙は乾いたみたいで、代わりに白い歯をのぞかせている。
その瞳からは、俺に対する警戒心がすっかり消えうせている。非日常を共有する者同士、距離感が縮まった気がした。
まずい……んじゃないか。これは。
頭の中で警鐘が鳴る。二人きり、旅先、薄暗い部屋、深い話、外は夜。しかも、今の俺は独身の同期の姿。
これは、なにかが始まってしまっても不思議じゃない。
「前田さん、本当にありがとうございました」
資料を作り終えて会場を後にすると、瀬能はるかが深々と頭を下げた。
「もう遅いし、女の子の一人歩きは危ないよ。一緒にタクシーで行こう」
通りに向かって手を挙げる。
「いえ、わたしは」
小さな声で首を振る彼女に、
「遠慮しなくていいよ、どうせ同じホテルに泊まるんだし」
口にしてから、その生々しい響きにドキッとした。
「あ、いや、もちろん別々の部屋だけど」
慌てて補足するが、かえってそれが怪しく聞こえてしまう。
タクシーを停め、行き先のホテルの名前を告げた。後部座席に並んで座る。
この構図は……運転手はきっと、俺たちのことを誤解しているに違いない。
「明日は朝から忙しくなるから、しっかり休んでおいてな」
必死に仕事の話を振った。彼女も、
「そうですね。今日は早めに寝ます」
やはり運転手を気にするかのように前に目をやってから、ちらっとこちらを見た。また胸がドキッとする。
なんなんだ、この緊張感。これが独身だったら心が浮き立つかもしれんが、俺にはこれっぽっちもそんな気はない。ないったらないのだ。
