【小説】忘れえぬ女(ひと) 最終章 第6話(最終回)
第6話
「チャコちゃーん! ガスの開栓、頼むの忘れてた!」
風呂場からかれんの声がした。久子はフローリングの上にモップを投げ出すと、まとめてあった書類を手に取った。
「どうしよう、お水しか出ない」
浴室へ行くと、掃除をしていたかれんが、泡のついたスポンジを片手に振り返った。
「すぐに電話すれば間に合うわよ。ちょっと待ってて」
久子がスマホの画面をタップする。てきぱきと応対を済ませ、浴室のかれんに向かい、
「夜までに来てくれるって。先にこっち、やっちゃおう」
と叫んだ。リビングに戻ってきたかれんが両手を合わせ、頭を下げる。
「チャコちゃんごめん!」
「いいって。それよりこのままじゃ、今夜寝られないよ」
二人で段ボールを開け、共有のリビングダイニングと、それぞれの個室を片付けていった。
「すごいね、部屋がいっぱいある!」
かれんが何度目かの歓声を上げる。これまでかれんが住んでいた古いアパートはワンルームだ。上京したばかりの頃は久子も同じようなものだった。
片付けを終え、かれんの作った引っ越しそばを食べた。かれんは料理が上手い。
「お父さんが亡くなって、しばらくお母さんと二人だったの。小学生だったけど、お母さんが働いている間はわたしがご飯作ってたんだ」
かれんの家庭の事情は、親しくなってからぽつりぽつりと聞いていた。
『一条』という苗字は亡くなった父親のもので、本当は母親の旧姓である『平』が本名らしい。
「でも、『一条かれん』の方が語呂が良いでしょ」
と言ってかれんが笑った。『一条』を名乗る本当の理由は、きっとその頃の幸せな思い出を残しておきたいからだろう。
「チャコちゃん見て。この部屋、本当に景色がいいよね」
かれんが裸足のままベランダに出て、遠くを指さした。新しい部屋は三階で、西向きのせいで少し安かった。
「ほら、富士山が見える」
「うそ」
久子も玄関から靴を取ってくると、ベランダに出てみた。かれんが指す方に目を凝らしたが、なにも見えない。
ふと気づくと、かれんが笑みを浮かべて久子を見ていた。
「騙したわね」
「騙してないよ。わたし本当に、どこからでも富士山が見えるんだ」
言いながら、かれんが手すりに両腕を乗せ、遠くに目を凝らした。
「お父さんがよく言ってたの。富士山を見ていると励まされるって。小さなことでクヨクヨしないで、頑張らなくちゃいけないって」
かれんが父親の話をする時、声は明るいのに、寂し気な顔になる。
「山梨って言ったっけ、出身は。お母さんはまだ住んでるの」
「……んー」
曖昧に呟き、かれんが部屋に戻っていった。いつも詳しいことは語ろうとしない。けれども、親のことを話したくないのは久子も同じだった。
「明日からだよね、新しいバイト」
久子が尋ねた。昨日は『カフェ・モカクリーム』を去る前に、二人で挨拶に行った。店主であるミミさんは、名残惜しそうに何度も「また遊びに来てね」と言ってくれた。せっかく知り合えた優しい人との別れはつらかった。なにより、かれんとミミさんを別れさせることになってしまったことが申し訳ない。
「うん、今度は焼肉屋さん。店長さんは優しそうだし、若いアルバイトの子がたくさんいるから楽しみだな」
かれんが明るく言った。久子に気を使わせまいとしているのがわかる。
「わたしもね、今の仕事を辞めようかと思ってる」
久子がぽつりと呟いた。かれんが目を瞠る。
「そうなの? だって……」
かれんには、整形手術を受けるお金を稼ぐためにAV女優をしていることを打ち明けていた。
『この顔じゃノンフィクションライターになれないから』
多くの人に会って、インタビューをする。それなのに、相手を怯えさせたり嫌悪感を抱かせるような顔では、仕事にならない。整形手術を受けるために、大金を稼げる仕事が必要だった。
けれども、あの仕事を続けてきたのにはもう一つ理由があった。
父にされたこと、ネットカフェの店長にされたこと。
こんなことはなんでもない。自分はあんなことで損なわれない。
ちっぽけな男たちがその行為によってどれほど女性を侮辱したつもりでも、こちらはその何十倍も、何百倍も相手を軽蔑してやる。
そんな気持ちで、頭を振り上げて生きてきた。その気持ちは今でも変わらない。
けれども、もうそこに囚われる必要はない。
「夢は、変わらないんだよね?」
かれんが尋ねた。
「うん……」
久子は唇を噛んでじっと考えてから、
「もちろん、この顔のせいでうまくコミュニケーションが取れないことはあると思うんだ。でも、ひょっとしたらこの顔だからこそ、つらい胸の内を打ち明けてくれる人もいるかもしれない」
久子の受けたつらい経験を、この顔が物語っている。
「それにさ、かれんみたいに、顔だけで決めつけない人は他にもいるかもしれないもの」
久子の言葉に、かれんが目を細めて頷いた。
「いいと思う。だってチャコちゃん、変わったもの。表情が優しくなった」
「ええ? うそだあ」
久子が笑った。冗談に決まっている。この顔が優しく見えることなど、あるはずがない。
「ホントだよ。なんかね、前よりもずっと目が優しいの」
かれんが重ねて言った。
「それは、かれんにはそう見えるってだけでしょ」
「もう、信じてないなぁ」
かれんが口を尖らせる。久子は愛おしくその顔を見つめると、
「わたしがなりたいのはさ、姿かたちじゃなくて、かれんみたいに───」
「え?」
かれんが目を丸くする。
「なんでもなぁい!」
久子は背を向けた。急に恥ずかしくなってきて、手で頬を扇ぐ。
「かれんの夢は、女優になることでしょ」
話の矛先を変えた。しかしかれんは「うん、まあね……」と歯切れの悪い返事をする。
「え、違うの?」
「ううん、本気でお芝居が上手になりたいと思ってる。でも実は、わたしの本当の夢は、別にあるんだよね……」
かれんが恥ずかしそうに言った。久子が目を瞠る。
「そうなの? 知らなかった。どんな夢?」
かれんは「んー」と呟きながらそっぽを向いた。
「なによー、言いなさいよ!」
久子が後ろからかれんの両肩をつかんだ。そのまま首元に指を這わせる。
「待って待って! くすぐったい」
かれんが首をすくめて久子から逃れた。
「あのね……いつか、自分の家族を持つのが夢なの。好きな人と結婚して、子供を産んで、それで───」
「なにそれ」
久子が噴き出した。かれんが「チャコちゃんひどーい!」と大きく口を開けた。
「笑うなんてひどい」
かれんが久子の脇腹を攻撃する。その手を逃れながら、
「だって」
と久子が笑いながら涙を拭いた。
「そんなの、叶うに決まってるじゃない。かれんみたいな子が、幸せになれないはずないんだから」
久子の言葉に、かれんが恥ずかしそうに身を縮めた。
太陽が西に傾く。まだ折り目の残った真新しいカーテン越しに、オレンジ色の光が部屋の中を照らす。
けれども、この部屋は夜明けだ。二人の未来も夢も、ここから始まっていく。
「ねえ、乾杯しようよ!」
それぞれが前の家で使っていたグラスを取り出した。近いうちに、おそろいのグラスを買ってこよう。
「夢いっぱいの未来に!」
かれんが言った。ビールを注いだグラスをカチンと合わせる。琥珀色の液体が嬉しそうに揺れた。
最終章 終わり
長きにわたり拙作を読んでいただき、本当にありがとうございました。
