【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第26話
第26話
教室の引き戸を開けると、デスクの奥にいた女性がぱっと顔を上げて立ち上がった。
「すんません、お電話で話した岡田創です」
そう言って頭を下げた。「平保奈美です」と保奈美も後ろで頭を下げる。
「今日はお時間取っていただいて」
創の言葉に、石橋という名のベテラン女性教諭は微笑んだ。
「いいえ、わたしにとっても興味深い話だったので」
机を向かい合わせにして、生徒用の小さな椅子に腰かける。
「幸田久子さんについて聞きたいとおっしゃいましたよね」
石橋教諭が尋ねた。
早坂祐奈に連絡し、通っていた中学の名前と当時の担任の名前を教えてもらった。学校に問い合わせ、幸田久子の名を告げた。
「わたしも気になっているんです。ちょうどこの前、同窓会があったのですが、幸田さんは来ませんでした」
それはそうだろう。創は心の中で呟いた。幸田久子は今、一条かれんの顔をしている。
「幸田久子……さんは、どんな生徒やったんでしょうか」
石橋教諭は微笑み、
「学ぶことに前向きで、意欲的な生徒でした。探求心も旺盛で……」
話しながら、思い出すようにゆっくり視線をさまよわせる。
「事情があって、クラスメイトと打ち解けるのが難しかったようです。わたしの力不足で……」
石橋教諭の声が消え入りそうになる。
「あの、今おっしゃった『事情』について詳しく知りたいんですけど。幸田久子……さんには、なにがあったんですか」
創の問いに、石橋教諭が顔を曇らせた。小さく息をつき、口を開く。
「彼女が小学生の時、家が火災にあったんです」
そのことは『カフェ・モカクリーム』の店主から聞いていた。創は頷き、先を促す。
「彼女の父親がその火事で亡くなって、お母さんと二人暮らしになったんですね。お母さんは家とご主人をいっぺんに失ったショックで、彼女につらくあたっていたようです」
保奈美がそっと口元に手をやった。一条かれんが義理の父につらくあたられていたことを思い出しているのだろう。
「一番ひどかったのは、修学旅行の一件です。久子さんの積立金が不足していて、わたしは何度かお母さんに連絡を取ったのです」
修学旅行の積立金は、当時から既に学校で集金するシステムではなく、所定の銀行口座から引き落とされるシステムだったそうだ。
集金用に作られたその口座に、幸田久子の母親は充分な金額を入れなかった。
「何度連絡をしても、『今はお金がないからそのうち入れる』としかおっしゃらなくて。わたしとしても、そう言われたらそれ以上なにも言えず……」
つらい立場だろう。創は口を結んだ。幸田久子本人はどんな気持ちだったのか。想像しただけで気持ちが沈む。初めて幸田久子に同情する気持ちが湧いてきた。
「結局、ギリギリになってお母さまから連絡があり、修学旅行をキャンセルしたいと言われました。わたしは意を決して、旅行の前の日に久子さんの家に行ったんです」
『お金はわたしがお貸しします。久子さんを修学旅行へ行かせてあげて下さい』
幸田久子と母親の住む小さなアパートの玄関で、石橋教諭はそう言って頭を下げた。しかし母親は、
『だって先生、この子のせいで夫も家もなにもかも失ったんですよ。それなのに修学旅行なんて』
そう言って笑った。奥の部屋で、幸田久子がじっと黙って佇んでいた。
「せっかくクラス委員をしていた女子生徒が幸田さんと一緒にグループになってくれたのに」
石橋教諭がそっと目元にハンカチを押し当てた。
「あの……」
創の頭にさっきの言葉が引っ掛かっていた。『この子のせいで夫も家もなにもかも失った』という母親の言葉。
「ひょっとして……幸田久子の家の火事は、彼女が原因なんですか」
『少年院に入ってたっていう噂が──』という早坂祐奈の言葉が蘇る。
「しかも、過失やのうて……放火ですか」
石橋教諭は黙ってうつむいた。創は確信した。事実なのだ。
「彼女が十一歳の時でした。火事の後、彼女は半年以上も入院していました。元の土地には居づらくなったそうで、中学に入学するタイミングでこちらの市に引っ越してきたんです」
「少年院に入っていた、という噂を聞いたんですけど」
創の言葉に、石橋教諭が首を振る。
「火傷が回復してから一時的に鑑別所に入りましたが、保護観察処分になりました」
放火の罪は重い。幸田久子は自分の家に火をつけ、父親を焼き殺した。
一条かれんの笑顔が浮かんだ。幸田久子が近寄り、かれんの手を引いて暗闇の中へ消えていく───。
待て、そいつを信用したらアカン!
創は心の中で叫んだ。
