【小説】忘れえぬ女(ひと) 第1章 第8話
第8話
とたとたとた……と小さな足音が近づいてくる音が意識を引き戻した。ドアノブががちゃがちゃと音を立て、回りかけては滑って戻る。
「にーに」
扉が勢いよく開き、甥が部屋へ飛び込んできた。蓮はまだしょぼしょぼする目をこすり、半身を起こす。
「あっくん、どうしたの」
声をかけても、甥は口元をすぼませながら両手を身体の後ろに組むだけだ。
窓の外は暗い。ふと気づいて時計を見る。そろそろ食事をして出勤しないと間に合わない。
「起こしてくれたの。ありがとう」
蓮の言葉に、甥は恥ずかしそうな笑みを浮かべて部屋を出ていった。着替えてダイニングへ向かうと、兄が既に帰宅し、スーツの上着を脱いだだけのワイシャツ姿で食卓についていた。
「よう、起きたか」
珍しいことだった。最近の兄は仕事の帰りが遅く、昼夜逆転している蓮と顔を合わせない日も多い。
「久しぶりだな」
兄も同じことを思ったのか、そんなことを言った。返事の代わりに小さく頷く。
台所に立つ義姉の足元に、おもちゃの電車を手にした甥がまとわりついている。
「あっくん、危ないよ。あっちに行ってて」
義姉が言った。父がのそりとやってきて、静かに自分の席に着く。
「あ、痛っ!」
鋭い声がした。義姉が片足立ちになり、顔をしかめている。足元ではプラスチックの電車が割れていた。
「もう、あっくん! あっちに行っててって言ったでしょう!」
義姉の大きな声に、甥はびくりと飛び上がる。みるみるうちに顔を歪ませ、大きな泣き声を轟かせた。
「痛かったのはママの方だよ!」
義姉はぷいと顔を背ける。甥はますます大きな声で泣き始めた。
「うるさいな!」
義姉が怒鳴る。蓮は驚いて目を瞠った。義姉がこんな言い方をするのを初めて聞いた。
「おいおい、どうしたんだよ」
兄が甥の元へ行き、抱き上げた。甥は安心したのか、声の大きさはそのままに、甘えた泣き方に変わる。
「ママに怒られちゃったねぇ」
兄が腕の中の甥を軽く上下に揺すりながらそう言うと、
「あたしがご飯作ってるんだから、昂ちゃんがあっくんを見ててくれたらいいでしょ!」
義姉がますますイライラした様子で言った。
「はいはい」
兄が肩をすくめた。義姉は目元を険しくしたが、それ以上はなにも言わなかった。
義姉が夕飯を食卓に並べた。黙ったままご飯をよそい、それぞれの前に茶碗を置いていく。
「いただきまーす」
兄が言ったが、義姉はなにも応えない。父と蓮がほとんど聞こえないような声で「いただきます」と言っても、義姉はじっと唇を噛んでいた。
