「太秦」を「うずまさ」と読むワケ
京都には「太秦」という地名がある。
時代劇で使われる撮影所があるところでもあり、東映の太秦映画村があるところでもある。

「太秦駅」という駅もある。

ところで、「太秦」を「うずまさ」と読める人はどれくらいいるだろうか。
「日本書紀」には、この「太秦」の言葉の由来についてこう書いてある。
「秦(はた)の一族が、ばらばらに散らばっていたので秦酒公(さけくみ)はうまく統制できずにいた。そこで天皇が詔(みことのり)を出し、秦酒公のもとへ馳せ参じるようにした。秦氏は感謝の気持ちで絹を天皇に献上し、庭に“うずたかく”積んだので〈禹豆麻佐(うつまさ)〉という姓を賜った」と。
こんな由来を信じる人がいるだろうか?
京都盆地は、朝鮮半島から渡来した秦(はた)氏の集団が開拓した。
ということは、古代、京都盆地には渡来人が住んでいたのだと思う。
京都は昔から機織りが盛んで、西陣織などの織物の産地である。

この「機織り」は「はたおり」と読む。
「機」をどうして「はた」と読むのか不思議だったが、京都盆地を開拓したのが秦氏だと知ったとき、「はた」はそこから来たのか、と納得した。
話が脱線したように思うかもしれないが、そうではない。
「太秦」には「秦」という文字が入っている。
とすれば、この地名も「秦氏」と関係があるのではないか、とそう思ったのだ。
秦氏は、自分たちは「秦の始皇帝の子孫」だと言っていたそうだ。
たぶん嘘だろう。
始皇帝の子孫と言ったほうがハクが付くと考えてそう言っていたにすぎないと思う。
古代、朝鮮半島から渡来した人の中には、「漢氏」(あやうじ)と名乗る集団もいた。
彼らは「漢人の子孫」と称していた。
これも怪しい。
「太秦」に話を戻す。
「ウズマサ」とは古代朝鮮語なのではないか。
古代朝鮮人たちは日本人よりも早く漢字を知って取り入れた。
古代日本に漢字をもたらしたのは古代朝鮮人たちなのである。
それはそうと、「ウズマサ」が古代朝鮮語だとすると、それになぜ「太秦」という漢字を当てたのか?
「太秦」という漢字には、「ウズマサ」に通じるような発音はないと思う。
古代朝鮮語で「ウズマサ」がどういう意味なのかわからないが、「太秦」という漢字を当てたほうがいいいような意味が「太秦」という漢字にはあるのではないか。
あるいは、日本列島に渡来して京都盆地を開拓してから、「ここは俺たち秦氏の土地だ」という思いを込めて、「太秦」という地名にしたのではないか。
「太い」「秦氏」と並べれば、秦氏にとってはめでたい地名になったのかもしれない。
飛鳥時代の飛鳥の人口の8割は、渡来人かその子孫だったとわかっている。
奈良は、朝鮮語の「ナラ」と同じ発音である。
「ナラ」は朝鮮語で「クニ」の意味だ。
奈良に平城京を造営したのは元明天皇である。
それまでの都だった藤原京から遷都して奈良に平城京を造った。
「日本書紀」では「ナラ」を「乃楽」と書いている。
「万葉集」では「平」「名良」「奈良」と表記している。
いずれも「読み」は「ナラ」である。
私は、この「ナラ」も古代朝鮮半島の言葉だったと思っている(ちなみに、「アスカ」も古代朝鮮語らしい)。
平城京を造るときに土地を「平(なら)した」から「奈良」と名付けたとかいう説もあるが、古代朝鮮語の「ナラ」から取ったと考えるのが最も素直だと思う。
しかし、自分たちの国の都に、「クニ」(ナラ)なんて名前を付けるだろうか?
当時の権力者たちの多くは渡来人かその子孫だったので、「ナラ」が「クニ」の意味だと知っていたはずだ。
天皇がそれを知らず、「ナラ」という言葉にめでたい響きを感じて「奈良」にしたのか?
違うと思う。
天皇家自体、渡来人かその子孫だと私は思っているからだ。
つまり天皇家は、日本を征服し、その都にふるさとの言葉「ナラ」を冠したのではないか。
古代の朝鮮半島は、主に3つの国に分かれていた。
高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)がそれである。
新羅と百済に挟まれた地域(朝鮮半島南部)には、加羅(伽耶ともいう)という小国家群があった。
古代日本人は、その加羅と親しく貿易をしていた。
余談を書くと、昔の日本人は舶来品を「カラもの」と呼んでいた。
それは、日本人が初めて貿易した相手が加羅だったので、舶来品のことを「カラもの」と呼ぶようになり、それが後世になっても使われたのだろう。
朝鮮半島南部の加羅と日本列島の北九州は同じ文化圏にあって、同じ民族が住んでいたようだ。
「日本書紀」などを読むと、日本の使節が朝鮮半島に行く際、高句麗や新羅の場合は通訳を付けたが、百済や加羅への使節には通訳を付けなかった。
ということは、加羅と百済と日本の北九州地方は同じ言語か、かなり似ている言語を使っていたのだろう。
加羅は新羅に滅ぼされた。
その後の日本の天皇は、「ありし日の加羅」と、滅びる前の加羅を偲んでいる。
まるで自分の母国が滅ぼされたかのような偲び方ではないか。
加羅が滅ばされた直後、日本の関西地域に巨大な前方後円墳が次々と造られた。
大山古墳などだ。

それまでも前方後円墳は築かれていたが、大山古墳などのように巨大なものはなかった。
私は、それら巨大古墳を造らせたのは、加羅の王族たちではなかったと思っている。
加羅から逃げてきて古代日本を征服し、巨大な権力を手中にしたのではないか。
教科書によく載っている「大化の改新」は、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと変えた改革だった。
それを行ったのは、中大兄皇子(なかのおおえのみこ。後の天智天皇)と中臣鎌子(なかとみのかまこ。後の藤原鎌足で藤原氏の祖)である。
彼らふたりは、強い権力を握っていた蘇我入鹿(いるか)を暗殺し(「乙巳〈いっし〉の変」)、蘇我氏を滅ぼして天皇中心の政治を始めたとされる。
もっとも、この当時は「天皇」という呼称はなく、「大王(おおきみ)」と呼ばれる者が後の天皇の立場にいた。
私は、「乙巳の変」は中大兄皇子と中臣鎌子によるクーデターだったとみている。
つまり、蘇我入鹿は「大王」だったと思っている。
当時は複数の豪族が順番に大王になるような仕組みになっていたのではないかと思う。
「ヤマト王権」の「ヤマト」を「大和」と表記したのは、複数の豪族が「大きく」「和する」意味を込めたのではないか。
それで「乙巳の変」のときは蘇我入鹿が大王だったのだろう。
蘇我氏は、日本の先住民族か、あるいは最も早く日本列島に渡来した人たちだったと思う。
それに対して中大兄皇子と中臣鎌子は、たぶん百済から遅くに渡来した王族だったのではないかと私は思っている。
中大兄皇子は、天智天皇になってから、新羅と唐の連合軍に攻められている百済に大量の救援軍を送っている。
とうてい勝ち目のない戦に日本から大量の軍隊を派遣するだろうか。
私は、天智天皇と藤原鎌足の両者、あるいはどちらかが百済の王族だったのだと思う。
百済には、彼らの親族がいたのではないか。
だからこそ、勝ち目がないと知りながら救援軍を派遣せざるを得なかったのだろう。

天智の次は天武が天皇になった。
このあたりから天皇家は一系になったと思っている。
それまではいくつかの豪族が争い合っての権力闘争が続いていたのだと思う。
余計なことまで書いてしまったようにも思うが、これらのことから、天皇家は古代朝鮮出身者だと私はみている。
だからこそ、懐かしい「ナラ」という言葉を、征服した日本という国の都の名前にしたのではないか。
「太秦」の話から「奈良」にまで話が及んでしまった。
では、「京」も古代朝鮮語なのか?
これは違うと私は思っている。
「京」という漢字には、「高いところに建つ」というような意味があるそうだ。
今の中国には「北京」という首都がある。
「南京」という都市もある。
だから、日本の「京」は中国語から取ったものではないかと思う。
