日本人の意固地さ
北海道でも少し暖かくなってきた。
朝はストーブをまだ点けることもあるが、もう少しすれば暖房はいらなくなるだろう。
日本にはストーブというものが明治後期になるまでなかったと言っていい。
囲炉裏やコタツや火鉢が暖房器具だった。
寝るとき寒ければ、人々は石を焼いて手ぬぐいに包み、それを抱い寝た。
明治十年すぎ、外国にはストーブという暖房器具があると知った役人だったか政治家だったかが、北海道開拓のために移住した開拓民のために薪ストーブを作って配布した。
ところがさっぱり普及しなかった。
どうしてかはわからない。
薪に火を点けるのが面倒だとか、見たこともないそんなものを使えるかと嫌ったせいかもしれない。
私は後者のように思う。
江戸時代以前から蝦夷地には和人が入り込んでいた。
そのうちの武勇の優れた武田氏が道南の松前に城を築き、蝦夷地各地のアイヌの人々と戦って降し、彼らを集めて酷使し、彼らが獲ったサケや昆布などを本州に送って金にした。
そのうち商人が松前藩に代わってその事業をするようになり、アイヌの人々はもっともっと過酷な労働をさせられるようになった。
ところで、松前藩の武士の邸宅も商人の家も、本州の日本家屋そのままだった。
日本家屋は高温多湿の気候に合うように作られるようになったもので、隙間風が多い。
北国にはまったく向いていないのだ。
松前の人々はそういう隙間風だらけの家に300年近くも暮らした。
東北の人々もそうだ。
もっといえば、昔の日本家屋は関西以西に向いた建物で、関東以北の環境にはまったく向いていなかった。
江戸だって冬は寒かったはずだ。
なのに、日本人は何の工夫もしなかった。
オンドルくらい考えられなかったのかと不思議である。
日本家屋ではない家に住めば日本人でなくなるとでも思っていたのだろうか。
耐えることが美徳だと思っていたのかもしれない。

蝦夷地でも、家屋や暖房器具とともに着るものも本州と変わらなかった。
和服は寒さに弱い。
それでも彼らは頑なに和服にこだわった。
マフラー的なものはあったが毛糸ではなく綿で編んだものだった。
和服を着ないと日本人でなくなるとでも思っていたのだろうか。
ストーブという日本的でないものを見せられても、拒否感が先に立ったのではないか。
こんなものを使うと日本人でなくなるとまで思った人もいたかもしれない。
私の住むアパートは千歳というよく冷える町のはずれにあり、冬はよく冷える。
壁の下地として貼ってある石膏ボードは数ミリと薄く、その上、断熱材が入っていなくて(床も)、ものすごい手抜き工事でできたアパートなのだ。
それでも、開拓民のことを想って耐えることにしている。
何しろ昭和初期までの開拓民は、細い木と草で作った粗末すぎる家に住んでいたのだ。

窓は壁をくり抜いてムシロを垂らしたもので、入口も穴を開けてムシロを垂らしていたという、恐るべき家で厳寒の冬を越していたのだ。
暖房器具は囲炉裏だけ。

そんな家が、北海道各地の開拓村に点在していた。
よくもまあ、そんな家で冬を越したものだと呆れるしかない。
もっと呆れるのは、アイヌの人々はもっとずっと以前から、そのような家で冬を乗り越えていたことである。
寒さに順応していたせいもあるだろうが、よくまあ耐えたものだと感心する。
北海道の住宅が気密性の高いものに変わったのは、ほんの60年くらい前からのようだ。
それまでは隙間風でみんなふるえて暮らしていたそうだ。
元妻の父親はオホーツク海に面した小さな村で生まれたが、小さいころは家族みんなで囲炉裏に足を向けて寝たそうだ。
だから足はまあ暖かったが、体と顔と頭が冷えて冷えて、布団をかぶって
寝るしかなかったという。
朝目覚めると、口元にある布団のはしに白い霜ができていたそうである。
それに比べれば、今の私はまだまだずっとずっとマシである。
仙台から北海道に渡って友達の家に冬に招待されたとき、友達の父親がランニング(今のタンクトップみたいな下着)とステテコ姿で出てきたのには驚いた。
今の北海道の家は、冬はばんばんストーブを炊くので、夏みたいに暖かいのだ。
北海道の灯油は、政府の補助か何かで、本州より安く買うことができる。
しかも、北海道の企業は冬季に従業員に「暖房費」という名の手当を出すところが多い。
だから道民はストーブをばんばん炊くのだ。
しかし暖房費が高騰しているので、今はランニングを着てステテコを履いている父ちゃんは少なくなっているのではなかろうか。
たぶん、ランニングの上に長袖のシャツを着て、下はステテコではなくジャージくらいは履いているように思う。
