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チライのバケラッタ

 福寿草アイヌの人々の言葉でチライアポッパといいます。イトウ花と訳されます。チライはあの絶滅危惧種になってしまったイトウのことです。

 この花の咲く早春、イトウは川を遡りはじめるのです。アイヌの人々はイトウも神の恵みとして食用にしていたので、それが遡上してくる時期には敏感だったと思います。ちょうどそのころに福寿草が可憐な黄色い花びらを開くので、福寿草がイトウ漁の開始を告げる花として珍重されたのでしょう。

 イトウといえば、私は若いころにずいぶん釣りに出向きました。道東の風連川(フウレンガワ)や別寒辺牛川(ベッカンベウシガワ)、道北のサロベツ川猿払川(サルフツガワ)によく行きました。

 でも、釣れないんです。幻の魚と呼ばれるだけあって、まず個体数が少ない。そのうえ私の釣り技術が未熟なので、どうしても釣れませんでした。姿を見ることもできないでいました。

 しかし、サロベツ川に釣行したとき、一度だけヒットさせたことがあります。

 湿原の川でルアーをキャストし、深く沈めてゆっくりゆっくり巻き取ってはキャストし…というのを何十回も繰り返していました。流れのゆったりとしたドン深の川なので、川底には倒木やら何やらがたくさん沈んでいて、そんな物陰にイトウは潜んでいるので、根掛かり覚悟でそういう川底を探らないといけないのです。

 この日も何度も根掛かりし、何個かルアーを失っていました。

 と、いきなりガクンッという大きなショックがありました。でも私は「また根掛かりか…」と落胆しました。ロッドを通して手に伝わる感触は川底の倒木にルアーのフックが引っ掛かったように思えたのです。

 ところが、次の瞬間、グンッ、グンッと左右に大きくルアーを振られました。

 「イトウだ!」と咄嗟に私は確信しました。イトウはフッキングすると左右に顔を大きく振ってハリを外そうとすることが多いと聞いていたからです。

 私は「ヤッター!」と内心小躍りしてロッドを構え直しました。

 そのときです。記憶では、目の前がパアーーーッと発光したのです。川面で爆発が起きたかのように大きな白い水しぶきが川の中央で吹き上がったのです。

 呆然としてロッドを構えた私は確かに見ました。

 その水しぶきの中央で頭を上にして体半分を水面から飛び出させた巨大な魚体を!

 秋サケよりもはるかに大きな頭だったので、体長は1メートル前後はあったと思います。

 そして次の瞬間、巨大な頭は水中に没してまた巨大な水しぶきが上がり、「あっ」と気付いたときにはロッドに伝わっていた重々しさが完全に消えてしまっていました。

 ロッドの先端から水中に伸びているラインは弛んでいて、魚がフックを外したことがわかりました。

 私は巨大イトウの出現に唖然としてしまい、まずロッドを大きくあおって確実にフッキングさせることを忘れ(サケ科の大きな魚の口の中は堅いのでヒットしたら即座に強くフッキングさせないとバレやすい)、それだけでなく、ヒットした後の絶対タブーであるライン緩めをしてしまったのです。

 ラインが緩むと魚は顔を振ったりジャンプしたりしてうまくフックを外すからです。

 だからヒットしたらロッドを後方に持ち上げるようにして素早く引き、そのままでリールをすぐ巻き、ラインをピンッと張ったままファイトに移らなければいけないのに、愚かな私はそれらの大事なことをスッポリ忘れてイトウのデカ頭に見とれてしまったわけです。

 その後は心身ともに弛緩して、しばらくは湿原の草の上に尻餅をついたまま惚けていました。

 ようやく力が戻ってきて、さてもう少し頑張るかと立ち上がって赤いルアーをキャストして巻き上げていたときです。川底から伸びて岸辺近くの水面に顔を出していた細い枝にルアーを引っ掛けてしまいました。

 ルアーを失わないように慎重にロッドを操作して外そうと何分か苦闘していました。

 すると、水底深くほんのり紅色に見えてユラユラ揺れるルアーの少し沖で、ユラリと何かが動いたのです。

 「………」と私は固唾を飲んでその物体に目を凝らしました。

 それはほぼ真ん丸の大きな顔のようで、それが何かの顔である証拠に小さいけど明らかに2つの目があります。

 (なんだ?)と私はしばらく見詰めました。魚だったら正面から見ると真ん丸ではないと思っていた私は、それが魚とは思えず、野生化したミンクか何かかとも思ったのです。

 試しにロッドを小刻みに振って赤いルアーをヒラヒラと動かしてみました。

 すると、真ん丸顔はスー…と前進してきてそのルアーに喰い付こうとしたのです。左右のエラのあたりのヒレを動かしてデカイ口を開けて。

 「イトウだ!」とここで私はやっとその真ん丸顔がイトウであることに気付きました。

 さっきバラしたやつかどうかはわかりませんでしたが、とにかく目の前にイトウがいるわけです。

 何年も追い求めていたイトウがそこにいるのです!

 私は興奮を必死に鎮めながらそれから数分、何とかイトウをルアーに喰い付かせようと努力しました。

 ルアーが水中の枝に引っ掛かっているので、イトウをフッキングさせても枝とイトウとラインがぐちゃぐちゃになってバレる恐れが大でしたが、根掛かりしたルアーを外しているうちにイトウがいなくなってしまいそうに思えて、一か八かの賭けに出るしかなかったのです。

 しかし、力んでしまってロッドを大きく動かしたのが失敗でした。

 イトウは前面に見える黒いものが人(動物)だと認識したらしく、スー…と後退していったのです。

 イトウがいた場所は、川底の泥が舞い上がって煙幕になり、何も見えなくなりました。

 その十数年後、どこかの水族館に子供を連れていったとき、サケ科の魚のコーナーがあり、イトウもたくさんいました。

 私はじっくりと彼らを観察し、にらめっこして「なるほど…」と納得しました。

 彼らの顔は本当に丸いのです。顔だけでなく、胴体が全体に丸い。普通の魚は胴体が薄くなっているものですが、イトウはそうではないのです。

 確かボラもそんな体をしています。子供のころ海岸でボラを釣ったら、その顔が真ん丸で、しかも口がへの字で、そのころテレビでやっていた「オバQ」に出てくる外国オバケのバケラッタ(そんな名前だったと思うけど違うかも)の顔にそっくりで笑いが止まらなくなったことを覚えています。

「チライのバケラッタ」って何のことだとワケのわからなかった方が多かったと思います。

 そういう意味なのでした。バカっぽいタイトル付けてすみませんでした。

〈産卵期のイトウ。魚体が真っ赤になる〉