読ませる本『雨鱒の川』
『雨鱒の川』という小説がある。
青森県出身の川上健一が書いた作品だ。

舞台は昭和30年ころ(たぶん)の青森県。
母子家庭の少年と、醸造家の家に生まれた聾唖(ろうあ)の少女とのラブストーリーである。
少年は、絵を描くことと魚獲りにしか興味がない。
授業中でも絵を描いてばかりだし、ときには学校をサボって魚獲りに走る。
小学生のときに書いた絵はフランスの何とかという大賞に輝いた。
おそらくサヴァン症候群なのだろう。
発達障害者などの障害者の中には、特定の分野で異常な能力を発揮する人がいる。
例えば山下清(裸の大将)は知的障害者だったが、絵に特別な才能を持っていて、素晴らしい作品をたくさん残した。
イチローはアスペルガー症候群だし、アインシュタインやスティーブ・ジョブスも障害を持っていたとみられている。
そのためなのかどうか少年は、少女が何も言わなくても彼女がどうしてほしいのか、何を考えているのかすぐ察することができた。
少女も、少年の気持ちをすぐ察することができた。
ふたりは近所同士だし年齢も近いので幼なじみだった。
それだけでそのように不思議な意思疎通ができるようになったとは思われない。
障害を持つ者同士にしかわからない、何らかの深い関係がふたりの間で結ばれていたとしか思えない。
ふたりは成長しても好き合っていた。
しかし青年は満足に仕事ができず、成長した少女は醸造会社を継ぐため養子を迎えて結婚させられようとしていた…。
そういう物語である。
結末は、「本当にこれで良かったのかな?」というものだ。
最初に読んだときはそう思ったのだ。
しかし2度目に読んだとき、「ふたりにはこの道にしかなかったのだ!」と気づいた。
私は、気に入った本や気になった本は何度も読む。
そのおかげで、作者の言いたいことがわかったような気がする。
私は68歳になるこれまでに、6,700冊以上の本を読んだ。

編集の仕事で「書籍紹介」などの記事を書くことも多く、月に何冊もの本を仕事で読むこともあった。
また何かの記事を書くに際しても、図書館から参考文献を借りてきて、読んで知識を得てから記事を書いた。
そういう場合は真面目に読んでいると何時間もかかって仕事に支障が出るので、いわゆる斜め読みをした。
日本語の文章の場合、漢字混じりのヒラガナである場合が多い。
そういう文章なら、漢字だけ拾って読んでいくだけで、その本の大意はわかる。
重要なことを書いているなと感じた部分はちゃんと読んだが、そのほかは斜め読みで済ませた。
今の記者や編集者は、わからないことがあるとネットですぐ調べることができるので、その点では昔より仕事量が減ったのではないかと思う。
そういう本を加えれば、読んだ本の冊数はおそらく7,000冊を超えるだろう。
とにかく私は読書の虫みたいにたくさんの本を読んできた。
それで、作者が言いたいことは何なのか、何を訴えたいのかを、だいたいの本では読み取ることができるようになった。
しかし、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の『雪国』を読んだときはそうはいかなかった。


抒情生に優れた作品だと思ったものの、わかりにくい文章が多く、その点で戸惑った。
本文の部分部分に縦線が引かれ、「注1」とか「注2」とか書かれていて、その「注」について本文の下に説明が書かれていた。
それを読んで、「ははあ、そういうことが前にあったからこんな書き方をしたのね」と、それでやっとわかるという部分が多かったのだ。
翻訳者はこの作品をどう外国語に訳したのだろうかと不思議になった。
もし直訳すれば、日本人でもわからない文章を外国人に理解できるはずがない。
日本語の文章では主語(今は「主格」と呼ぶ。欧米語でいう主語は日本語にはないと考えたほうがいいからだ)を省いても意味が通じる場合が多々ある。
だから、日本人作家の作品を外国人が翻訳するとなると、翻訳者がその作者に「この文章の主語は誰なのか?」としょっちゅう聞いてくるのだそうだ。
これは村上春樹がエッセイの中で書いていることなので、他の作家も同じ経験をしていると思う。
『雪国』を翻訳したのは外国人なのか日本人なのか知らないが、外国人なら叫びたくなるほどに狂っただろう。
日本人が翻訳したとしても、「注」を入れなければいけない部分をどうやって翻訳したのか。
外国人にもわかるように、さまざまに工夫し、抒情生をくずすことがないよう配慮して訳したのだと思う。
そうでなけばノーベル賞なんて取れなかっただろう。
話がそれた。
川上健一の『雨鱒の川』も、何度か読み込まないと作者の思いがわからない作品だと思う。
映画にもなったが(玉木宏・綾瀬はるか主演)、近代化で青森県には作品の舞台にできるような川などがなかったのか、映画は北海道で撮影された。

しかも、内容が原作と少し違う。
少し違うその部分は、絶対に伝えなければならない部分なのだ。
だから、映画を観ただけでは、障害者同士だからふたりはわかり合える関係だったのだということが頭に入ってこない。
川上健一がどうしてそのことをはっきりと書かなかったのか。
わからない。
でも、何度も読み返したくなる本ではある。
そういう魅力のある作品だ。
そのことを見越して、「何度も読んでね」ということで、大事なことを故意に書かなかったのだろうか。
そうだとしたら、近年まれにみる文豪かもしれないと思う。
私は、わかりにくい文章を書く人を小説家やエッセイストとは認めない。
まして文豪とは認めない。
けれど、川上健一の場合は、どうみるべきなのか、迷っている。

なお、川上健一の小説は、接続詞をほとんど使わないで書かれている。
これは実に難しいことである。
その点でも私は川上健一を特別視している。
