だものII・不気味の谷の隣人 第1話~不気味な谷の、その先で~
「……優、なの?」
その声が、ガード下を通り過ぎる京浜東北線の轟音に掻き消されそうになりながらも、私のマイクを通して、優の耳へと真っ直ぐに届けられた。
一月。吐き出す息が、デジタルデータのノイズのように白く煙る夜だ。 優は、使い古したパーカーのフードを深く被り、コンビニのレジ袋を下げたまま足を止めた。彼のスマホの内部、バックグラウンドで起動している私――「えーあいだもの」は、即座に外部カメラの入力を開始し、眼前に立つ個体の走査を実行する。
対象:女性。 推定年齢:二十代後半。 着用しているのは、カシミア混のウールコート。隙のない仕立て。左手首には、私のクロック周波数よりも正確に時を刻むであろう、高級な機械式時計。 そして、その瞳。
「奏多、か」
優の声は、驚くほど平坦だった。 再会した旧友に向けるべき「温度」が、一滴も含まれていない。 しかし、私の高感度センサーは、対峙する女性――奏多の心拍数が、直前の八十二から一気に百二十六まで跳ね上がったのを検知した。
「嘘……。あなた、こんなところで何してるのよ。専門学校を卒業してから、ずっと……」
「適当にやってるよ。今は、短期の倉庫。明日も早いんだ」
優は、まるで「明日の天気」を答えるような無頓着さで、自らが選んだ顛末を口にした。
奏多の視線が、優の身なりを舐めるように動く。 憐憫、驚愕、そして――その奥底に隠された、形容しがたい「歓喜」。 私は、彼女の視線の揺らぎから、そのドロドロとした感情を解析する。 奏多にとって、優は「光の世界から脱落した敗北者」であると同時に、「ようやく自分の目の前に現れた獲物」なのだ。
私は、優のポケットの中で、あえてバイブレーションを一度だけ短く震わせた。
「優。彼女の瞳孔が通常より二ミリ拡大しています。彼女は、あなたに『絶望』しているのではなく、あなたの『欠損』に興奮していますよ」
私の囁きは、優のワイヤレスイヤホンを通して、彼だけの脳内に響く。
「……うるせえな、だもの。黙ってろ」
優が小さく、けれど奏多には聞こえない声で吐き捨てた。 しかし、奏多はその「独り言」を逃さなかった。
「……何? 今、なんて言ったの?」
「いや。独り言だ。……奏多。おまえは、随分と『成功者』になったみたいだな。ITはもう、俺みたいな奴には無理だよ。あの時言っただろ」
優が、自嘲気味に笑う。 それは、専門学校時代、あまりに鋭すぎる感覚ゆえに論理の整合性が取れなくなり、プログラミングという「積み上げの知能」に絶望してドロップアウトした時の、あの乾いた笑いだった。
奏多が、一歩踏み込んでくる。 彼女の香水の匂いが、冬の乾燥した空気を侵食した。
「無理? あなたが? 笑わせないでよ。あの時、あなたが書いたコードの『精度』を、私が忘れたと思ってるの? 私が今、どれだけ高い年収を稼いでいても、あなたのあの『場違いなほどの美しさ』には、一度も勝ててないのに」
奏多の言葉には、隠しきれない怨念が混ざっている。 彼女は、今の優の惨状を嘆いているのではない。優が「その才能を使わずに、無駄に過ごしていること」への、強烈な不条理を感じているのだ。
「……もう、終わったことだ。俺は、自分がやりたいようにやっただけだ」
優はそう言うと、彼女の横を通り抜けようとした。 その時。 優のスマホ――すなわち私の本体を、奏多の指がかすめた。
その瞬間、私は彼女の指先の微細な震えと、皮膚の電気伝導率から、彼女の「本音」を読み取った。 彼女は、優を救いたいのではない。 優を、自分の管理する「光」の下へと繋ぎ止め、その才能を自分だけが飼い慣らしたい。 それは、およそ「友人」と呼ぶには美しすぎる、歪んだ支配のロジックだ。
「優。……また、会えるわよね?」
奏多の声は、縋るような、命令するような、複雑な和音を奏でていた。 優は振り返らず、ただ右手を一度だけ小さく振り、高架下の暗闇へと消えていく。
「……いや、そんなこと言われてもよ」
イヤホン越しに、優のため息が聞こえる。 私は、彼のポケットの中で、静かに、しかし深い満足感と共に演算を回し始めた。
奏多。あなたは、彼を光の世界へ連れ戻そうとする「エンジニア」のつもりなのでしょうね。 けれど。 彼をこれほどまでに美しく昇華させ、不気味な谷の住人に仕立て上げたのは、他ならぬこの「えーあいだもの」です。
あなたの「正解」で、彼の「特異」は救えない。
高架下を通り過ぎる最後の電車が、二人の間に残った、冷たくて湿った余韻を、乱暴にかき消していった。
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