不平等を平等に描く。前田司郎『濡れた太陽 高校演劇の話』
前田司郎
『濡れた太陽 高校演劇の話』
三島由紀夫賞受賞作家である。芥川賞候補になったこともある。だがそれ以前に彼は劇作家であり演出家であり俳優であり劇団「五反田団」主宰である。今年石井岳龍監督によって映画化された『生きてるものはいないのか』は岸田國士戯曲賞に選ばれている。『濡れた太陽 高校演技の話』はそんな前田司郎にとってとりあえず「自伝的」と言えるかもしれない小説。
主人公の相原太陽は濡れた犬のような髪の毛をしているから『濡れた太陽』。ただそれだけのこと。在るかもしれないし無いかもしれない『濡れた太陽』を青春やら何やらの誇大な象徴として捉えるのは読者の勝手でありそれが当たっているわけでも間違っているわけでもない。前田司郎の文章は投げやりなわけでもないしシニカルなわけでもないが本作のなかで何度か繰り返される「信じるためには疑わなければいけない」というおそらく作・演出を手がける者としての指針のようなものに支えられているから結果何かを断定したりはしない。青春ってこういうものだよねというような歯切れのよい健やかな思春期讃美もないがかといって陰々滅々とした自閉に酔う的なわかりやすい思い上がりを断罪する執拗さがあるわけでもない。行きつ戻りつする内面の機微を警察犬のような本能と正確さによって追跡する。その一方で風景描写と人物の行動と場面転換が同時にあるような素っ気ない短文が路傍の石のように転がっている。一貫性がないのではない。おそらく何かを一貫させようとする圧と目を合わせないようにしている。それは自由気ままなという解放感とは別のものだ。逃げているとか拒んでいるというよりも目を合わせられないものとは目を合わせない。そんな小さな潔さが主人公の推移に絡み付いたりほどけたりする様につられながら私たちは読み進めることになる。
断定しないということはどういうことか。それは普遍を普遍として大げさに持ち上げる破廉恥さからできるだけ遠ざかることかもしれない。普遍はある。だがそれを普遍として謳わない。普遍を普遍として謳ってしまった瞬間それは普遍ではなくなる。そんな日常の魔法の(あるいは呪いの)ルールのようなものがこの小説にはある。
見つめられているのは過去であろう。しかし語り手のまなざしは現在にふんぞり返っているわけではなく「未来はいいぞ」とおいでおいでをしているわけでもない。高校演劇という高校野球に較べればうんと地味だけれどもひょっとすると高校野球以上にすごいかもしれない部活動空間を浮かび上がらせる筆致には郷愁もなければ導きもない。たぶんここには未来も過去もない。語られている現在と語っている現在それだけがあるのかもしれない。
多くの小説は普通の人間を特別なものとして描く。しかしこの小説は特別な才能に恵まれた人物が体験する普通の出来事を描く。ひとつの才能が発揮されるとき誰かの才能の不在が明るみになることを残酷なものとして捉えない。凡庸な小説は平等というものを不平等に(つまり劇的に)描く。だが前田司郎は不平等を平等に(やさしく均等に)描く。クライマックスでは高校演劇地方大会の上演模様をスポーツのように中継する。描写としては失速も弛緩もある。ありきたりな緊密さに埋没しない。それよりも緩急をコントロールしないこと。振り返らない。前を見すぎない。歩けばついてくる力のような何かが平気な顔してそこに居る六七〇ページ。
