「大丈夫」8闇
海くんと暮らすようになって3か月が経った。
海くんが3分ほど黙っているだけで、私は異変を感じるようになっている。今も、なんだか声がしないなと思って見てみると、海くんはスマホを食い入るように見ていた。
普段ならスマホを見ながらでも、「雅也さん今日は外回りだったんだって」「雅也さんの部下同士が険悪な雰囲気になったらしい」という全く不要な情報を流してきたり、「今年の夏は異常に暑いんだって、去年も暑かったよね、去年暑すぎてアイスばっかり食べてたんだ、そしたらだんだん飽きてきちゃったの、今年の夏はまた食べる気になるかな」といった調子なのに、無言でスマホを見ていると異様に思えてくる。
何を見ているのかとそっと近づくと、SNSに投稿されている、ゲイの結婚式の動画だった。
新郎と新郎が抱き合い、周りの人たちが祝福をしている。
海くんはいまだに、雅也さんとのツーショット写真も持っていない。自分の写真と雅也さんの写真を合成して、ツーショット風にした画像を、スマホのロック画面にしている。
海くんは加工してでもツーショット写真が欲しいのに、まだ存在しないということは、雅也さんが拒否するのだろう。
≪僕たちからは愛が奪われた。でも僕だって好きな人を愛する権利があるし、僕だって好きな人から愛される資格はある。僕たちの愛を取り戻そう≫
海くんが好きなゲイのアメリカ人歌手が、この間そんなことを言っていた。同性愛はひそやかに育まれないといけない、という前提があるからこその、主張。
やっぱりこの件は放置せずに、私が面倒見てあげたい。
海くんの隣に座ると、「ねえ、これ見て、知らない人たちの結婚式なのに、すごい感動しちゃった、誓いのキスのときに映像がすごいキラキラして、ほらここ、2人ともかっこいいよね、ロマンチック~って感じ」といつもの調子で話し始めた海くんに、「海くんのほうがイケメンだけどね」とそっと頭を撫でた。
「これ雅也さんに見せてもいいかな。見せないほうがいいかな。んーやっぱり見せないほうがいいよね、今きっと仕事中だけど、でもたまたま休憩時間かもしれないから、ちょっとLINEしてみよ」
海くんの視線はスマホにしか向いていないことを確認してから、私は部屋を出て、自分のベッドに移動する。
LINEの誠一郎とのトークを開くと、6年前の≪時間ができたらまたそっちに行く≫で終わっている。長い間お世話になって、嫌な思いをしたわけでもないのに、ひどい終わり方をしたものだ。
でも当時は、自分たちの関係性が不健全である事に、酔っていたような気もする。自分が傷つかないために、物事をなるべく軽視していたのかもしれない。
≪誠一郎おはよう。海くんがゲイだということを、裕子さんもきっと気づいている。でも言い出せないだけ。海くんも、言いたくても言い出せないだけ。
そこで誠一郎の出番だと思うの。裕子さんのほうからさりげなく、海くんにカミングアウトさせる機会を作ってあげたらどうだろう。最終的には、海くんが家族に、彼氏を紹介できるくらいの親子関係になってほしい≫
具体性のないわがままなメールだったが、誠一郎の心を動かす効果はあったらしい。
誠一郎にLINEを送ると、すぐに電話がかかってきた。
「みさに言われなくても罪悪感は募っていた。裕子は俺に心配かけまいとしてるのか、海とのことに俺を介入させたくないのか、理由は分からないが、平穏無事に過ごしていると23年間ずっと報告されていた。俺もつい楽観的に物事を見たくなって、裕子の報告を深く探ることはしなかった。本当に俺は無責任だよな、海のことだけじゃなくて、裕子のことも捨ててしまってたということに、やっと気づいた」
よく考えてみると、誠一郎も語ることが大好きだ。やっぱり親子なんだなぁと胸が痛くなる。
「同性愛者として生まれることに、遺伝子が関係しているのかどうかは、いまだ研究結果が明らかになってはいないことだが、海がゲイだと聞いて、俺の罪悪感はさらに強くなっていた。何か償いができるのであれば」
「罪悪感って言葉が出てくること自体、おかしいわ」
私は誠一郎の言葉をさえぎって、思わず強く言ってしまってから、声を潜めた。隣室には海くんがいる。
「そんな、過ちを犯してしまった、みたいな考えは間違ってるでしょ。自己理解と認知再構成を自分自身にした結果がそれなら、そういった人々に対しての理解がおかしいし、彼らのことをきちんと理解しているのなら、誠一郎も認知行動療法をすべきだわ」
「みさ。この罪悪感は感情的なものではない。俺の知識と理性によって消すことが叶わない罪悪感だ。まず知識としては、同性愛者の自殺率は高い。それなのに実の親が手出しできず、姿も現わせないなんて、自己嫌悪以外に抱ける感情があるものか」
「自己嫌悪に逃げないでよ。人に迷惑かけないなら楽な道選ぶのもありだけど、誠一郎は自分で背負うべき苦しみを人に押し付けてる。自己受容と自己慈悲は100点満点ね、さすがプロ。でも親に自己嫌悪されたら、その自己から生まれた子供はどうなるの。誠一郎が親になれなかったのは事件のせいなんかじゃない。むしろ、事件のせいにしてることが間違っている。傍観者でいるのも許せない。親として、なんならその罪悪感をかき集めて、早く現状を変えてよ。過去はもう変わらないんだから」
海くんの話し声が隣室から聞こえてきた。一瞬ぎょっとしたが、どうやら雅也さんと電話で話しているらしい。
海くんの嬉しそうな笑い声が、私を現実に引き戻す。
海くんは今自分でこの現状を選んでいる。叶うのであれば親に認めてもらいたい、雅也さんとの結婚式を挙げたい。
でもそれが失敗したら?
カミングアウトすることによって親子関係が壊れたら?
その上、雅也さんまで離れてしまったら?
その危険性も大きいから、海くんは曖昧で絶妙な生き方をしているのだろう。
「アウティングだけでも大変なことだが」
アウティングとは、本人の了解を得ずに、本人が隠している性的指向などを暴露する行動のこと。
難しい問題ではあるけれど、誠一郎なら悪いようにはしないはず。
「みさもあの頃、俺とのことを、誰かに言いたかったのか?」
「まさか」私は笑った。
「海くんは彼氏のこと、ものすごく好きなのよ、私も誠一郎のこと好きだったけど、私の好きとはレベルが違う」
だってあの二人はお金もらわなくても付き合ってるんだもの、と心の中で付け加えると、
「せめて、好きのタイプが違う、と言ってくれ」と訂正された。
でも私たちはそんなに、こそこそしてない。
よく旅行にも行った。初めての旅行は淡路島だった。旅館に泊まって、お酒が入った誠一郎は私に、
「ナオミ」
と言った。
一瞬、他の女と間違われたのかと思ったけど、誠一郎は、私を試す目つきをしていた。
「譲治さん?」
もしも誠一郎に違う意図があったとしても、これは通じるはず。
ナオミも譲治も、谷崎潤一郎「痴人の愛」の登場人物の名前だ。
それまで私たちの間で、「痴人の愛」が話題になったことはなかった。
でも旅先の非日常なムードから、盲目的な愛を示唆するこの小説に、自分たちを重ねたくなったのかもしれない。
「正解。ふと、あの話のなかの、馬ごっこの場面を思い出した」と彼は笑った。
「え、もしかして、誠一郎ああいうの好きなの? キモいんだけど」
今は彼のM気質が目覚めているらしい、と察すれば、私はわざと辛辣な言葉を並べる。
「未成年の女の子を旅館に連れ込んで、一人で酔っぱらって、もう、お医者さんなのに何やってるの」
私は不思議なくらい、相手が求めている言葉が口から飛び出てくる。自分が自分ではないかのように、思ってもいない言葉が勝手に出てくるのだ。
頭の中では、こんな言葉言われて何が嬉しいんだろう、という不可解さもありながら、私は彼のM気質を満足させ、彼はいちいち私にお金を与えた。
サーカスの動物と同じ。芸が成功する度エサをもらえるライオンのように、彼を満足させる度、私はお金をもらった。
彼の闇の部分が私を求めていることは、よく分かっていた。おそらく私を買うことで彼の闇はさらに深くなっていったが、闇から目を背けるために私が必要とされたのだ。闇の上塗りをして、まるで新たな闇を作り出そうとするかのように。
今思えば、闇の中心には海くんの存在があったのだろう。海くんを救うことができたら、誠一郎の闇は少しずつ晴れていくかもしれない。
私が高校を卒業した直後、東日本大震災が起きた。
実家は仙台。大きな被害はなかったが、しばらくライフラインが止まったり、家の建て直しが必要になったりしたため、私は大学に行くよりも働いたほうがいい、と判断した。
大学入学のために、もう東京のマンションの手続きをすませていたから、私は東京で働く、と家を出た。
震災後の不安が残る土地に両親と妹を置いて、一人で東京に出てくるなんて、冷たい選択かもしれない。
でも私は自分の直感に自信がある。このタイミングで東京に出るという流れは、変えないほうがいいと思った。
東京に来て、近所にあった心療内科クリニックの事務スタッフになり、1ヶ月後にはそこの医師である誠一郎の家で半同棲していた。
私たちの始まりは歓迎会の夜だった。
「父が市役所で働いているんですけど、仙台の復興のために、市民の活気を取り戻すために、全身全霊をかけて頑張っているんです。なにか心理学のアプローチで、そういった活動に効果のある方法はありますか?」
自粛ムードの中、院長、誠一郎、看護師2人、私という少人数で行われた歓迎会で、私は場繋ぎとしてそんな話を持ち出した。
誠一郎は当たり障りない返事をしながら、私を見定めるように見ていた。院長には妻子がいることを知っていたから、私も誠一郎ばかり意識していた。
帰りのタクシーで私は、「お恥ずかしいんですけどあの地震以来、一人になるのが怖いんです。まだ一人暮らしに慣れていないだけだとは思うんですけど」と誠一郎を見つめた。知的で親切な誠一郎に対して好感はあったけれど、その時点で好意と呼べる感情はなかった。ただこの流れに乗ったら、もしかしたら楽しい方向に進むかもしれない、という予感があって、少し淫靡な雰囲気を作った。
「私もたまに、一人暮らしを寂しく感じる夜があるので」と誠一郎は言って、運転手に、私の家を経由せず、直接誠一郎の家に行くように指示した。
半同棲するようになって、私は夜、眠れなくなった。誠一郎が頻繁にうなされていたからだ。たまに、寝ていて突然叫びだすこともあり、正直、一人暮らしよりもよっぽど怖いと思った。
「原因ははっきりしている」と本人は言っていたが、原因の内容は教えてくれなかった。
彼は長々と話してから寝るとうなされにくい、という現象に気づいたらしく、就寝前は私に小説家トークをする習慣ができた。
「芥川は漱石の弟子で、2人とも英文学に深く影響を受けているわけだから、やはり世界に目を向けることも大事だし、先輩から支援されたり、学んでいくことも大事だ。あとは社会変化を敏感に察する力だな。変化というのは渦中にいると気づきにくいこともままあるが、小説家というのは何事においても、ものの見方が違うのだろう。みさはどう思う」
「どう思う」というのはチャンスの合図だ。うまく答えれば、ご褒美がもらえる。
せっかくのチャンスに本音を言ってしまうなんてもったいない。私の頭の中は空っぽだから、そんなの成り行き任せでいいや、なんて返事が浮かんでしまうけれど、芸のない返事ではお金がもらえない。ありのままの私でいたって、自分自身もつまらない。
「私はね、君の希望は~っていう文章あるでしょ? あの文章を最初、誰が書いたか知らずに、名言集の中の言葉として読んだのね。人間は次第に進歩して、次第に人間の苦痛を少なくするものであるっていう文章ね。で、それを『地獄変』で読んだ時、なんだこういうふうに出てくるのかって思っちゃった。人間の苦痛を少なくするって言い回しがネガティブだなーって。私だったら、人間は次第に進歩して、次第に快適になっていく、みたいに言うわ」
誠一郎は返事をしない。寝たのか寝てないのか分からないまま、私は小声で話し続ける。
「あとね最近の私、ご機嫌だから、太宰のアレ、『トランプの遊びのように、マイナスを全部あつめるとプラスに変るという事は、この世の道徳には起り得ない事でしょうか。』って文章の逆の気分なの。プラス全部集まってマイナスになっちゃったらどうしようっていう、それだけが不安なのよ」
