最後の技術者たち:ポイ活難民編(1)
第一話 電子マネーとポイント戦争
小銭を消し、人間を経済圏の住民に変えた機械
文・武智倫太郎
あらすじ
消えゆくIT伝統芸を記録するエッセイを書いていたはずだった。だが、現金が消え、電子マネーとポイントが日常を覆った瞬間、物語はホラー小説へ変わった。元決済インフラ技術者の太田健二郎は、レジ横に並ぶ決済ロゴを「決済帝国の軍旗」と呼ぶ。人々は得をしているつもりで、購買履歴、移動履歴、通院の影、検索語までを経済圏へ差し出していく。やがて、その先には「信用スコア」と呼ばれる前の点数が待っていた。

本文
「お支払い方法は?」
現代日本で、これほど穏やかに聞こえて、これほど残酷な問いも少ない。
コンビニのレジ。薬局の会計。病院帰りの駅ナカ。スーパーのセルフレジ。ファストフード店の注文端末。そこには、無数の紋章が並んでいる。
交通系IC。流通系電子マネー。クレジットカード。QR決済。ポイントアプリ。クーポンアプリ。会員証アプリ。自治体連携アプリ。本人確認アプリ。
かつてレジ横に置かれていたのは、招き猫と募金箱だった。
いま置かれているのは、決済帝国の軍旗である。
客は商品を買っているつもりだった。だが実際には、そのたびに、どの経済圏へ生活の一部を差し出すかを選ばされていた。
交通系で払えば速い。流通系で払えば系列ポイントが付く。クレジットカードなら還元率が安定する。QR決済ならキャンペーンがある。現金なら履歴を残さない。
ただし現金を出すと、レジの空気が少しだけ変わる。
違法ではない。
だが、歓迎もされない。
「少々お待ちください」
その一言に、現代社会の本音がにじむ。
現金は遅い。釣り銭が出る。数える手間がある。レジ締めがある。両替がある。盗難リスクもある。確かに面倒である。
しかし、現金には一つだけ、電子マネーが失った大切な性質があった。
現金は、黙っていた。
百円玉で缶コーヒーを買っても、百円玉は誰にも報告しない。どの店で、何時に、何を買ったか。誰と一緒だったか。帰り道に何を検索したか。薬局の帰りだったか。給料日前だったか。深夜だったか。失効前のポイントに釣られたのか。
現金は何も喋らない。
電子マネーは喋る。
しかも、持ち主よりよく喋る。
今回訪ねたのは、太田健二郎さん、七十六歳。かつて鉄道系ICカード、自動改札、店舗決済端末、電子マネー連携、ポイント管理システムの導入に関わった技術者である。
団地の一室に通されると、低い机の上に奇妙な遺物が並んでいた。
磁気定期券。古いプリペイドカード。初期のICカード。電子マネーリーダー。QR決済端末。バーコードスキャナ。そして『加盟店精算仕様書』と書かれた分厚いファイル。
その隣には、磨かれた百円玉が一枚だけ置かれていた。
太田さんは、古いICカードを手に取った。
「若い人は、電子マネーをアプリだと思っておる。違う。あれは戦場じゃ」
戦場。
その言葉は、大げさに聞こえた。
だが、太田さんは笑わなかった。
「改札は待ってくれん。スマホアプリのように、ただいま混み合っております、などと言えん。朝八時の新宿駅で、少々お待ちくださいと表示した瞬間に、文明は終わる」
交通系ICは、最初から決済アプリではなかった。人間の群れを止めずに処理するための機械だった。
切符を買う。定期券を見せる。改札を通る。その一連の手間を、一瞬のタッチに圧縮する。
そこには、古い技術者の美学があった。
速く。確実に。二重に引かず。取り逃がさず。止まらず。落ちず。誤作動せず。朝の群衆を流し続ける。
それは、まだ技術だった。
少なくとも、太田さんはそう信じていた。
「改札機はな、人間を急がせるように見えて、実は人間を守っておった。流れを止めれば転倒する。列が詰まれば怒号が飛ぶ。残高不足の一件で、後ろの百人が止まる。だから、あの機械は無口でなければならん。速く、短く、間違えず、余計なことを言わん。それが礼儀じゃった」
太田さんは、机の上のリーダーを指で撫でた。
「だが、決済が駅を出た瞬間、礼儀は変わった」
改札を通るためのカードは、やがて売店で使えるようになった。駅ナカで使えるようになった。コンビニで使えるようになった。スーパーで使えるようになった。薬局で使えるようになった。
移動の道具だったものが、生活の入口になった。
そして、流通系電子マネーが現れた。
小銭を出さなくていい。ポイントが付く。会員ランクが上がる。系列店で得をする。キャンペーンがある。誕生日クーポンがある。買えば買うほど、あなたに合ったおすすめが届く。
最初、人々は喜んだ。
損をしないためである。
だが、損をしないための生活は、やがて得をするための生活に変わった。
太田さんは、机の上に貼られた古いポイントカードを指差した。
「ポイントはな、貨幣ではない。だが、人間を動かす」
ポイントは、現金より弱い。使える場所が限られる。期限がある。規約が変わる。突然、付与率が下がる。交換条件が変わる。期間限定ポイントという、ほとんど餌のようなものまである。
それでも人間は動く。
あと三百円でランクアップ。あと五百円でクーポン発行。今日だけ十倍。今月だけ優遇。アプリ登録で百ポイント。本人確認で二百ポイント。友だち追加で五十ポイント。口座連携でさらに上乗せ。
人間は、三十七円を失いたくなくて、三千七百円の買い物をする。
これを企業はマーケティングと呼ぶ。
太田さんは、別の言い方をした。
「期限付きの首輪じゃ」
ポイ活難民という言葉がある。
彼らは、貧しいから難民になったのではない。ポイント制度が複雑すぎて、生活が制度に追いつかなくなったのである。
アプリが多すぎる。キャンペーン条件が読めない。クーポンを出す順番が分からない。会員証を出してから決済なのか、決済してからクーポンなのか、店員も分からない。レジ前でスマホが固まる。通信が遅い。ログインが切れている。パスワードを忘れる。認証コードが届かない。画面の明るさが足りない。バーコードが読み取れない。後ろの客が無言で圧をかける。
そして最後に、現金を出す。
その瞬間、敗北者のような気持ちになる。
おかしいのは、現金ではない。
おかしいのは、得をしない人間を、損をした人間に見せる制度である。
ポイ活難民は、買い物が下手な人間ではない。損をしないための儀式が、買い物そのものを上回った時代の犠牲者である。
彼らは商品を選ぶ前に、アプリを選ぶ。味を見る前に、還元率を見る。必要かどうかを考える前に、失効期限を見る。
牛乳を買うために店へ行ったはずなのに、アプリの通知が言う。
『あと四百二十円で今月のランク条件を達成します』
その瞬間、牛乳は目的ではなくなる。
ランク達成が目的になる。
人間は、買い物をしているつもりで、条件を満たすために移動している。
ポイ活とは、自由な消費ではない。
期限に追われる小さな巡礼である。
しかも本人は、得をしたと思っている。
電子マネー戦争の第二幕は、QR決済だった。
QR決済は、技術として最も美しい決済ではなかった。だが、戦争は美しい武器を持つ者が勝つとは限らない。兵站を持つ者が勝つ。広告費を持つ者が勝つ。還元原資を持つ者が勝つ。加盟店に営業部隊を送り込める者が勝つ。
つまり、QR決済とは決済技術ではない。
補給戦である。
ある巨大通信系企業は、札束を火薬に変え、ポイントを砲弾に変え、レジ横へ総攻撃を仕掛けた。
消費者は歓喜した。店は端末を置いた。レジ係は新しい操作を覚えた。会計担当者は手数料と入金日の確認に追われた。高齢者は「ペイ」と名の付くものが多すぎて、何に払っているのか分からなくなった。
そして経営者だけが言った。
「これは赤字ではありません。顧客獲得費です」
赤字ではない。
将来の囲い込みである。
損失ではない。
住民登録である。
キャンペーンではない。
決済領土の奪取である。
便利という言葉は、戦争における煙幕である。
消費者は便利になったと思った。店は集客になると思った。自治体は住民サービスになると思った。政府はデジタル化になると思った。
だが、本当に奪い合われていたものは、決済手数料だけではない。
生活の入口である。
支払いは、生活のほぼすべてに接続する。
食事。通勤。通院。薬局。通販。コンビニ。書店。公共料金。税金。寄付。娯楽。サブスク。保険。旅行。美容院。整骨院。ジム。介護用品。健康食品。
決済を押さえる者は、生活の地図を持つ。
どこへ行ったか。何を買ったか。何を我慢したか。何に釣られたか。どの店で安売りを待つか。給料日前に何を減らすか。ポイント失効前に何を買うか。病院帰りに何を食べたか。薬局のあとに何を検索したか。
それは、生活の軍事機密である。
レジ横のロゴは、利用可能な支払い方法の一覧ではない。
それは、現代人の所属確認である。
あなたは交通系の民ですか。
流通系の民ですか。
通信系の民ですか。
クレジット貴族ですか。
ポイント農奴ですか。
それとも、まだ現金という旧教を信じる異端者ですか。
店員は、そこまで言わない。
言わないからこそ、レジ横の沈黙は重い。
太田さんは、古い仕様書を開いた。黄ばんだ紙の端に、赤いペンで「障害時対応」と書かれていた。
「昔の決済システムには、止まったときのことが書いてあった。通信が切れたらどうするか。端末が読めなかったらどうするか。二重に引いたらどう戻すか。人間が困ったときに、どこまで機械が責任を持つか。それが仕様じゃった」
太田さんは、スマホの画面をこちらに向けた。
そこには、ポイントアプリの通知が並んでいた。
『本日限定』
『あなたへのおすすめ』
『失効予定ポイントがあります』
『本人確認でさらに便利に』
『友だち追加で特典』
『健康アプリ連携で抽選対象』
『自治体からのお知らせを受け取る』
「いまの仕様書には、困った人間のことより、反応する人間のことが書いてある」
反応率。継続率。離脱率。購入率。回遊率。還元率。クリック率。開封率。本人確認完了率。
人間は、客ではなくなった。
反応する単位になった。
最初の恐怖は、現金が消えることではなかった。
現金を使わない人間が増えることでもなかった。
本当の恐怖は、現金を使う人間が、説明の必要な存在になることだった。
「なぜ現金なんですか」
誰もそうは聞かない。
だが、システムは問う。
なぜ履歴を残さないのか。
なぜポイントを受け取らないのか。
なぜアプリを入れないのか。
なぜ本人確認をしないのか。
なぜ口座を連携しないのか。
なぜ通知を許可しないのか。
問いは声にならない。
声にならない問いほど、人間を追い詰める。
「現金を使う者は、犯罪者ではない」
太田さんは言った。
「だが、追跡しにくい」
追跡しにくい人間は、不便な人間になる。
不便な人間は、面倒な人間になる。
面倒な人間は、最後に疑わしい人間になる。
行政は断じて、そんなことは言わない。企業も言わない。アプリも言わない。ポイント規約にも、そんな表現はない。
言わないから怖いのである。
システムは、人間を善悪で見ない。処理しやすいか、処理しにくいかで見る。
処理しやすい人間は、便利な利用者になる。処理しにくい人間は、例外処理になる。例外処理は、やがてコストになる。コストは、最後に迷惑と呼ばれる。
こうして任意の制度は、誰も命令していないのに、従わない者を静かに追い詰めていく。
恐ろしいのは、誰かが強制したわけではないことだった。
人間は自分でアプリを入れた。
自分で通知を許可した。
自分でポイントを貯めた。
自分で本人確認をした。
自分で口座を連携した。
自分で検索した。
自分で規約に同意した。
そして、すべてが終わったあとで言われる。
『お客様ご自身で選択されました』
これほど完成度の高い支配はない。
支配されている側が、自分の選択だと信じているからである。
太田さんは、机の上の百円玉を手に取った。
「こいつは遅い。重い。数えるのも面倒じゃ」
それから、スマホの画面を指差した。
「だが、こいつは黙っておる」
画面には、ポイント失効のお知らせが表示されていた。
あと三日で失効します。
あと五百円でランクアップします。
友だち追加で十ポイント。
本人確認で百ポイント。
口座連携で二百ポイント。
健康アプリ連携で特典。
自治体通知を受け取ると抽選。
歩数達成でポイント。
睡眠記録でポイント。
血圧入力でポイント。
健診予約でポイント。
薬局利用でポイント。
おすすめ商品の購入でポイント。
人間は、得をしているつもりだった。
しかし、ポイントとは、得ではない。
得をした気分に変換された行動ログである。
現金は、小銭入れの中で眠っていた。
電子マネーは、サーバーの中で起きていた。
ポイントは、人間の欲望を見張っていた。
AI検索は、人間が差し出した欲望を、次の欲望へ並べ替えた。
便利。
お得。
安心。
簡単。
その四つの言葉に包まれながら、人間は少しずつ、自分の生活を差し出していった。
やがて、決済戦争は終わる。
勝者は、現金を倒した企業ではない。
電子マネーを普及させた企業でもない。
QRコードを貼らせた企業でもない。
検索エンジンでもない。
AIでもない。
本当の勝者は、人間に自分から記録されることを喜ばせた者である。
太田さんは、最後にこう言った。
「昔はな、金を払えば買い物は終わった。いまは、金を払った瞬間に、その人間の説明が始まる」
誰が、何を、いつ、どこで、どの支払い方法で、どのポイントを使い、どのクーポンに反応し、どの経済圏に残り、どの制度から外れ、どの通知を無視し、どの広告に立ち止まったのか。
それらは、まだ信用スコアとは呼ばれていない。
まだ、である。
帰り際、太田さんのスマホが震えた。
画面に、緑色の通知が浮かんでいた。
『自治体からのお知らせです』
太田さんは、しばらくその通知を見つめていた。
「来たな」
「何がですか」
「次の戦場じゃ」
通知には、こう書かれていた。
『LINEで申請できます。窓口に行かず、かんたん手続き』
かんたん。
その言葉だけが、妙に明るかった。
第一話、電子マネーとポイント戦争。
それは、小銭を消した技術ではありません。
得をした気にさせながら、人間の生活履歴を経済圏へ移住させた技術です。
現金は敗れました。
しかし、現金は黙っていました。
電子マネーは勝ちました。
そして、喋り始めました。
次回、第二話。LINE役所と異例の口頭要請
行政が人間を友だち追加する時代を訪ねます。
