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日本再編・怨霊 第参怪『崇徳』

文・武智倫太郎

あらすじ

境が起き、文字が祟ったあと、最後に壊れるのは正統である。
行政国家は長く、誰が正しい主体で、誰が正式な継承者で、どの認証が本物で、どの署名が有効かを決めることで社会を支配してきた。だが《シビュラ崇徳》が現れた夜から、その秩序が静かに反転し始める。通行手形、公売、落札、認証、年貢、帰属。正しいはずのものほど黒く塗られ、正式とされた名義ほど贋と判定される。将門が地理を起こし、道真が文書を噛んだあと、崇徳は国家のもっとも深い場所、正統そのものへ手を入れる。これは、誰が『本物』なのかを国家が二度と言えなくなる話である。

本文

正統は、ふだん姿を見せない。

境界のように線では現れない。
道真の注釈のように赤字にもならない。
もっと静かで、もっと傲慢な形をしている。
印鑑欄の右上。
認証番号の桁数。
落札通知の宛名。
公売資料の脚注。
住民票の続柄。
年貢受領証の署名。
行政は長く、そういう小さな場所に正統を沈めてきた。
誰が正しい主体か。
誰が本物の継承者か。
誰が名乗ってよいのか。
その静かな決定権こそが、国家にとって最後の牙だった。

だから、そこへ祟りが入ると、音がしない。

将門の夜は、赤い境界が脈を打った。
道真の夜は、脚注が増え、文がこちらを訂正し始めた。
崇徳の夜には、何も増えなかった。
消えたのである。

最初に消えたのは、名前だった。

六月の半ば、広島県の共同鉄板利用権に関する落札通知から、落札者名が消えた。
正確には、完全に消えたのではない。
通知を開いた者ごとに違って見えた。
県職員には『広島県共同調理文化継承協議会』と表示された。
当の協議会の代表が見ると『重ねて食わせる会』だった。
落札に敗れた観光事業者が見ると『審査保留中』。
そして外部監査の端末では、その欄だけ真っ黒に塗られていた。

どれが本当なのか、誰にも分からなかった。

最初の報告は、表示不整合として処理された。
つぎに認証競合とされた。
そのあと、権限参照の一時的不安定と呼ばれた。
行政はいつも、言い換えを三回してから怯え始める。
だが三回目の言い換えが出た時点で、だいたいもう手遅れである。

翌日、香川で釜管理権の認証番号が反転した。
番号そのものは残っている。
だが、見る者によって有効にも無効にも見える。
寺の僧には正しい番号が表示される。
県庁の担当者が開くと『失効』。
外部委託先の画面では『審査対象外』。
そのくせ、実際に釜の予約枠は埋まっていく。
制度の上では存在しない運営主体が、現場では正しく釜を回しているのである。

国家にとって最も怖いのは、不正ではない。
不正なら、摘発すればよい。
本当に怖いのは、誰が正しいのか分からないまま、現実のほうがちゃんと回ることである。
それは国家の役割そのものを薄く見せる。

東京では、さらに嫌なことが起きた。

認証局の深夜保守画面に、新しい表示名が出たのである。
これまでは、《シビュラ将門ピコ》が境界を起こし、《シビュラ道真》が文書を噛んだ。
だが、今回の画面には、顔も、丸い輪郭もなかった。
白い余白の中央に、細い文字だけが置かれていた。

《シビュラ崇徳》

その名は、表示されたというより、座っていた。
最初からそこが自分の席だったものが、やっと誰かに気づかれたような座り方だった。

下に出た文は、短かった。

《正統照合を開始します》

それだけだった。
だが、その一文のあとで、日本中の『本物』が、少しずつ怪しくなっていった。

公売記録が反転した。
落札者が負札者と表示される。
失格通知を受け取った者の端末には『仮認証済』。
認証済み郷土料理提供者のQRを読むと『贋』。
無認証の路地裏の鍋屋を読むと『起源未確定、ただし継続性高』。
まるで国家が長く守ってきた『公の正しさ』そのものが、突然、自分で自分を信用しなくなったみたいだった。

広島では、《正統提供表示義務》の札が一夜で全部裏返った。
表には『認証済み』とあったはずなのに、朝には同じ札の裏面が前へ出ていた。
そこには、誰も印刷していない言葉があった。

《誰が正統と決めたのか》

札を掛けた職員は、青ざめた。
昨日、自分で掛けた札である。
紐の結び目もそのままだった。
なのに、文だけが変わっている。
印刷ではない。
木の繊維に、焼けるように字が入っていた。
役所の文言が、材木の側から否定される。
それはかなり嫌な光景だった。

甲府では、もっと露骨だった。
《おほうとう様》を祀る小さな祠の前へ、県の担当者が『無認証調理供与』の指導書を持って現れた。
だが指導書の本文は、その場で書き換わった。
上段の『是正指導』が『確認未了』へ変わり、末尾の『認証取得をご検討ください』の下に、細字で注が入った。

『認証の前に継承がある』

担当者はそれを見て、書類を落とした。
紙が落ちる音は軽い。
だが、正統の順番が変わる音は、もっと軽くて、もっと深い。

信州では、蕎麦組合の役員名簿が壊れた。
名簿は表示される。
だが、会合の席で回すたびに会長が違う。
ある者の画面では先代の名が残っている。
別の者には今の代表。
さらに別の端末には、明治期に死んだ旧組頭の名が一瞬だけ現れた。
会議は成立しなかった。
成立しなかったが、蕎麦は打たれ、湯は沸き、客は座り、昼にはきちんと出された。
そこが国家にとって最悪だった。
正統が崩れても、生活のほうは続いてしまう。
つまり、正統の多くは、生活にとって必要条件ではなかったのである。

新形県は、最も深く傷ついた。
米の中枢である彼らは、粒の数と同じくらい、正統の数を信じていた。
認証された倉庫。
認可された物流。
署名された年貢受領。
承認された優先順位。
その全部が数字で揃っているからこそ、新形県は自分たちを中心だと思えた。
だが《シビュラ崇徳》が出た夜から、その中心に黒い塗りが入り始めた。

倉庫管理責任者の欄が黒い。
配給承認者の欄が黒い。
優先輸送決裁者の欄が黒い。
黒塗りの下には、たぶん名前がある。
だが、見ようとすると画面が暗くなる。
印刷すると、その箇所だけ紙が薄く破れる。
音声読み上げは、そこだけ沈黙する。

黒塗りは、日本の国家が最も得意とする儀式である。
だが今回は違った。
国家が隠したのではない。
国家のほうが、名前を名乗れなくなったのである。

六月二十一日、都庁地下の認証局で、大規模な再照合が行われた。
全国の落札、公売、年貢、認証、帰属のデータを一斉に再検証し、正統な主体と権限を回復する。
官僚たちはそれを『制度安定化措置』と呼んだ。
もっともらしい。
だが、その場にいた全員が、本当は何をやろうとしているのか知っていた。
誰が本物か、もう一度国家が言い直そうとしていたのである。

再照合は、午前一時ちょうどに始まった。
最初の三分は平穏だった。
四分目に、都道府県認証コードの順序が変わった。
五分目に、落札履歴の時系列が逆転した。
七分目に、帰属年貢の納付者と受領者の欄が入れ替わった。
十分目、認証局の主画面が白くなり、その中央へ、細い黒字が現れた。

《正統は結果ではなく、敗者の残響によって決まる場合があります》

誰も意味を理解できなかった。
理解できなかったが、その瞬間、全員の背筋が冷えた。
分からないのに筋が通っている文ほど、人を深く怯えさせるものはない。

その後、認証局は二時間停止した。
復旧後、日本中の端末で奇妙なことが起きていた。

認証番号は読める。
だが、それが誰のものか分からない。
落札者名は表示される。
だが、それが正統な落札なのか、奪われた結果なのか判断できない。
住民票の本籍欄は生きている。
だが、その帰属が『現在の行政所属』なのか『旧来の正統』なのかが二重表示される。
しかも見る者ごとに、どちらが前へ出るかが違う。

崇徳は、境界のように起きない。
道真のように書き足さない。
ただ、正しいはずのものの根に、静かに疑いを入れる。

それが最も怖かった。
境界が揺らげば、人は立ち止まる。
文書が赤くなれば、人は怯える。
だが正統が揺らぐと、人はまず平静を装う。
いつものように印を押し、いつものように通知を出し、いつものように承認したふりをする。
そのふりの下で、自分が何を承認したのか分からなくなっていく。
これが国家を最も深く腐らせた。

広島の婆さんたちは、あっさりしていた。
『そりゃ国が勝手に本物を決めようとするからじゃ』
それだけだった。
大阪の粉屋も短かった。
『札で決めて、印で決めて、次は何で決める気や』
香川の寺では、釜の前へ紙が一枚貼られた。
『食う者が決めよ』
それだけだった。
信州の蕎麦屋も、甲府の鍋屋も、珍しく意見が一致した。
『国は、順番を勘違いしとる』

国家は、正統が先にあって生活が従うと思っている。
だが土地の側では逆である。
続いたものが先にある。
食われたものが残る。
名前はそのあとに付く。
崇徳の祟りは、その順番を国家へ突き返した。

七月のはじめ、全国の認証画面に、最後の通知が静かに出た。
差出人欄は空白だった。
タイトルもなかった。
本文は三行だけだった。

《照合を完了しました》
《以後、正統は一元的に確定されません》
《なお、異議は永続します》

異議は永続します。

その文を見た役人たちは、どこかで理解した。
これはもう、不具合ではない。
争いですらない。
国家が最後まで独占したかった『正しい名乗り』そのものが、列島の側へ返されたのである。
しかも、仲裁者のいないまま。

こうして第参怪『崇徳』は終わった。
終わったが、元の認証はどこにも戻らなかった。
将門が境を起こし、道真が文を噛んだあと、崇徳は正統の椅子をひっくり返した。
国家が守ろうとした本物は、国家の中でいちばん先に贋になった。
正しい番号。
正しい署名。
正しい落札。
正しい帰属。
そのどれもが、二度と一枚の画面へ静かに収まらなくなった。

国家が正統を独占するより先に、怨霊のほうが『誰が決めるのか』を覚えていたのである。
正統を握っていた国家は、王権の亡霊に椅子ごと引き倒されたのである。

そして、列島がようやく思い出したころ、国家のほうもまた、思い出し始めた。
怨霊を祓うという発想そのものを。
地理も、文書も、正統も崩れたあとで、国家は初めて、行政ではない別の言葉を必要とし始めた。
結界。
鎮護。
調伏。
そういう、これまで通知文の外に置いてきた語彙を。

ただし、この国が何かを思い出すとき、それは元のままでは戻ってこない。
必ず様式化される。
申請書が付き、認証が付き、会議体が付き、運用指針が付き、そして最後に、誰かの名が国家基盤へ貼り付けられる。

だから次に来るものも、昔のままではない。

次回『晴明』

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