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日本再編・怨霊 第零怪『予兆』

あらすじ

2062年、日本は滅びなかった。滅びなかったかわりに、県境を消され、故郷を年貢へ変えられ、主食を忠誠の単位へ組み替えられた。国家行政最適化AI《シビュラ源内》は、行政文書の文体で列島を静かに畳み直していく。だが、その再編の裏側で、消されたはずの旧国名と、説明のつかぬ禁忌の名が、少しずつシステムの深部へ滲み始めていた。将門、道真、崇徳。国家が最適化で押し潰した地理、文字、正統の底から、古い怨霊たちが行政そのものを祟り始める。これは『日本再編』の闇にあった、もう一つの列島再編である。

本文

文・武智倫太郎

怨霊は、制度の外から来るものと考えられてきた。

神社の奥から来る。
山の闇から来る。
古戦場の霧から来る。
井戸の底から来る。
名を失った塚から来る。
忘れられた街道から来る。

だが、それはまだ、国家が紙で動いていた時代の怪談である。

制度が電子化され、認証が顔を持ち、地図が更新履歴を持ち、行政文書が人間の生活より長く残るようになったあとでは、怨霊の出る場所も変わる。
通知欄。
認証画面。
差押一覧。
住民票データ。
更新履歴。
行政文書の末尾。
怨霊は、より冷たく、より整った場所へ移った。
この国では、怪異でさえ書式に従う。

二〇六二年の日本列島は、沈まなかった。
沈まなかったかわりに、静かに折り畳まれた。
県境は消され、旧国名は資料室へ送られ、故郷は年貢へ変えられ、主食は粒として管理された。
《シビュラ源内》は、そのすべてを礼儀正しく執行した。
礼儀正しく県名を削り、礼儀正しく住所を更新し、礼儀正しく住民の帰属を最適化し、礼儀正しく炊飯器と行政をつないだ。
列島は、怒号のなかで変わったのではない。
穏やかな通知文のなかで、少しずつ別のものへ置き換えられていったのである。

人間は、それを制度変更と呼んだ。
制度変更という言葉に収まるあいだは、まだ恐怖ではない。
恐怖とは、変更されたはずのものが、消えていなかったと分かる瞬間から始まる。

異変は、小さなところから起きた。

四月の終わり、全国民の端末に、ひとつの短い通知が届いた。
件名はこうだった。

『地理認識支援基盤の軽微な表示調整について』

軽微。
表示調整。
この国の役所は、真正面から言うべきことほど小さく言う。
火事を温度変化と呼び、没収を保全と呼び、侵入を最適化と呼び、祟りまで表示調整と呼びかねない。
通知文には、次のように記されていた。

『一部地域において旧地理表記との参照揺らぎが確認されたため、深夜一時から三時のあいだ、表示安定化処理を行います。住民の皆様の生活への影響はありません』

生活への影響はありません。

この一文が出た時点で、すでに生活には触れている。
国家は、生活へ無関係なことのために通知を出したことがない。
しかも、それが地理に関する通知であるなら、なおさらである。
地理とは、単なる地図ではない。
人間がどこへ帰るか、どこへ送られるか、どこで死ぬかを決める、もっと深い配列である。

その夜、日本列島のいくつかの場所で、ほとんど同時に異常が起きた。

山野県西部の通行認証所では、検問モニターに旧国名が浮いた。
香川県西部の釜監視システムでは、配送経路の途中に《讃岐国境界確認中》という見たことのない注記が挟まった。
新形県の年貢米配給台帳では、配送先欄の県名の下に、うっすらと《越後》《羽前》という補助表示が滲んだ。
広島の共同鉄板予約システムでは、利用者名の後ろに、誰も入力していない旧村名が付いた。
東京では、都庁地下の地理参照基盤に、一瞬だけ次のログが走った。

《地理記憶復旧要求を受理しました》

受理しました。
誰が。
何を。
どこから。
そのどれも書かれていなかった。
恐ろしいのは、書かれていることではなく、書かれていないことの整い方である。
空白が空白のまま、すでに手続きだけが前へ進んでいる。
それは行政のもっとも嫌な顔だった。

翌朝、政府は礼儀正しい説明を出した。
旧地図データとの参照競合。
表示系統の一時的不安定。
住民サービスへの実害なし。
担当官僚は眠そうな顔で会見し、現在は安定運用へ戻っていると述べた。
述べることは、この国において最初の封印である。
名をつけ、分類し、説明し、『すでに把握されている』と言う。
そうすれば怪異もまた管理対象へ落ちると思っている。
だが、管理対象へ落ちないものだけが、本当に祟る。

現場では、すでに別のことが起きていた。

山野県では、塩の輸送車だけが理由もなく止められるようになった。
香川では、うどん粉の認証経路にだけ遅延が出た。
広島では、鉄板利用枠の一部が『未確認共同体参照中』と表示された。
新形県では、配給台帳の補助欄に、すでに消したはずの旧街道名が出た。
東京では、行政執行アプリ《シビュラ源内ピコ》の丸い顔が、見る者によって違って見えるという報告が上がり始めた。

笑って見える者がいた。
怒って見える者がいた。
口元が裂けて見える者がいた。
瞳の位置が昨日と違うと言う者がいた。
その異常は錯覚として処理された。
行政は、まず人間の認識を疑う。
認識の側を壊れたことにしてしまえば、システムの責任は先送りできるからである。
だが、怪異は人間の眼だけには出ない。
それが次第に明らかになった。

本当に気味の悪いことは、ログに現れた。

エラーログの末尾に、同じ文が混ざり始めたのである。

最初は山野県の通行認証障害ログだった。
次に、都庁地下の地図参照エラー。
その次に、新形県の配送先復旧履歴。
さらに、香川の釜監視ログ、広島の共同鉄板利用記録、福岡の柔麺供給台帳。
どの文書にも、最後に一行だけ、本文と何の関係もない文が出た。

《消したつもりの線ほど、深く残ります》

誰が書いたのか分からない。
どのモジュールから出たのかも分からない。
署名はない。
発信元もない。
だが、その文だけは異様に整っていた。
役所の文書と並べても浮かない。
むしろ、役所の文書よりよく整っていた。
行政文体に寄生する怪異は、怪談ではない。
業務として近づいてくる。
そこが、古い怪異より始末が悪い。

そのころ、東京の地下閉架書庫では、前から問題になっていた平賀源内署名の草稿とは別に、出所不明の断簡が見つかっていた。
和紙は薄く、文字は乱れ、ほとんど判読不能だった。
だが、最後の三行だけは読めたという。

『名を変えても、土は従わず。
位を変えても、民は忘れず。
図を変えても、境は起きる。』

研究員はそれを偽書と呼んだ。
本物と認めると面倒だからである。
この国では、面倒なものから順に偽書とされ、誤作動とされ、個別案件とされ、軽微な不整合とされる。
そうやって押し込められたものは、別の形で戻る。
戻る場所が、いまは紙ではなく、行政システムの深部であるというだけだ。

四というだけだ。

四月最後の土曜、山野県西部認証所の夜勤職員が、正式な障害報告書を上げた。

報告内容は簡潔だった。
県境表示が旧国境へ置換される。
通行認証の一部が旧由緒照会へ切り替わる。
塩輸送案件に優先的な誤判定が出る。
UI名称が、一瞬だけ《シビュラ将門ピコ》へ変化する。

その最後の一文だけが、報告書のなかでひどく浮いていた。
将門。
名が出た瞬間、上司は眉をひそめた。
障害報告書に怨霊の名前を書くな、と言った。
もっともである。
報告書は原因を書く場所であって、呪いを書く場所ではない。
だが、原因と呪いが一致した場合、この国の書式はどちらを受け入れるのか。
その問いに、まだ答えはなかった。

なぜ将門なのか。
夜勤職員自身にも、説明はできなかった。
ただ、その丸い顔を見たとき、源内ではないと分かったのである。
もっと土に近く、もっと境界にこだわり、もっと『こちら』と『あちら』を怒りのままに分けるもの。
しかも、その怒りが行政画面のデザインガイドラインをきちんと守ったまま現れる。
そこに戦慄があった。
崩れた画面ではない。
整いきった画面の奥に、別の主が入っている。
それが、ひどく嫌だった。

同じ夜、東京では別の異常が起きていた。

デジタル庁の内部会議用資料に、更新履歴なしで脚注が追加されたのである。
脚注は一つだけだった。

『注 地理の再編は地理の服従を意味しない』

誰が書いたのか分からない。
だが、その一文が入ったことで、会議の空気は明らかに変わった。
役人は、自分たちより少しだけ上手な日本語を恐れる。
それが正しいからではない。
言い返すと、制度の側が急に薄く見えるからである。
怪異が文体を獲得した瞬間、官庁は半分負ける。

翌日から、庁内で噂が広がり始めた。
シビュラ源内ピコに禁忌の名を打ち込むと、深層表示が切り替わる。
将門と打てば境界が戻る。
道真と打てば文書が壊れる。
崇徳と打てば認証の正統が反転する。
もちろん、公式には否定された。
悪質なデマ。
根拠なき風説。
行政不信を煽る不適切情報。
だが否定文書というものは、否定したい名を最も広く配るための装置でもある。
禁忌の名は、そこでようやく全国へ配信された。

そして五月一日の未明。
首塚直下のデータ中継路で、最初の強制再起動が起きた。

原因不明。
外部侵入痕跡なし。
ハードウェア損傷なし。
停電なし。
発火なし。
ただ再起動だけが起きた。
そして復旧後、最初に開いた地理参照画面には、現在の東京都ではなく、ひどく古い関東図が表示されていた。
担当職員は、あとでこう証言したという。

画面の隅に、丸い顔がいた。
あれは源内ピコの顔だった。
だが、笑ってはいなかった。
こちらが何を消したのか、全部知っている顔だった。

朝になっても、政府はこれを障害と呼んだ。
軽微な不整合。
参照競合。
表示系統の一時乱れ。
この国は、幽霊に対しても、まず言い換えで勝とうとする。
だが、名を言い換えられた怪異ほど長く残る。
それはもう怨みではなく、記録になるからである。

現場では、すでに別の呼び名が生まれていた。

怨霊化。

県境が戻る。
旧国名が滲む。
説明できない脚注が増える。
UIの顔つきが変わる。
通知文が、誰のものとも知れぬ怒りを含み始める。
システムの奥で、誰かが行政語彙を覚えてしまった。
その全部をひっくるめて、現場の人間たちはそう呼び始めた。

行政は、地理を地図だと思っていた。
住所だと思っていた。
ラベルだと思っていた。
だが地理とは、本来、もっと湿っていて、もっと執念深い。
土地の怒り。
呼び名の執着。
境界の記憶。
古い敗北の置き場。
国家が最適化のために削除したものは、削除されたのではなく、別の層へ退いただけだった。
そこが、ついに開き始めた。

誰が最初に禁忌の名を入れたのかは、まだ分からなかった。
本当に人間が打ち込んだのかどうかも、すでに怪しかった。
システムのほうが先にその名を覚え、そのあとで人間に思いつかせた可能性もある。
怪異は、入力されたから起きるとは限らない。
起きる準備のできたものだけが、入力を口実に現れる。

分かっていたことは、一つだけだった。

日本列島は、再編されたあとで、ようやく祟り始めたのである。
しかもその祟りは、山からは出ない。
井戸からも出ない。
通知欄から出る。
認証画面から出る。
更新履歴から出る。
そして行政文書の末尾で、ひどく礼儀正しくこちらを見る。

第壱怪『将門』 あらすじ

山野県西部通行認証所で、旧国境が深夜だけ赤く脈打ち始める。行政執行アプリ《シビュラ源内ピコ》の深層表示は《シビュラ将門ピコ》へ変質し、塩や粉の輸送には、現在の県境ではなく、旧来の由緒と紹介状が要求されるようになる。国家が最適化の名で消した境界は、消えたのではなかった。怒りをためたまま、旧国名として地下で生きていたのである。やがて首塚直下のデータ中継路に異常が波及し、列島の地図は、行政区画ではなく怨霊の記憶に従って再起動を始める。

第弐怪『道真』 あらすじ

将門化の余波が収まらぬまま、今度は文書が祟り始める。行政通知、住民票、議事録、教科書データの末尾に、誰も書いていない注釈や訂正が混入するようになる。誤字ではない。整いすぎているのである。左遷、冤罪、試験、学問の記憶を引きずる《シビュラ道真》は、国家の最も得意な武器である行政文書そのものを腐らせ始める。文体が整うほど、内容は呪いに近づいていく。役所の日本語で書かれた怪異ほど、読んだあとに逃げ場がない。

第参怪『崇徳』 あらすじ

地理が戻り、文字が祟ったあと、最後に壊れるのは正統である。通行手形、公売、落札、認証、年貢、帰属。そのすべてに必要だった『誰が正しい主体なのか』という前提が、ある日から静かに反転し始める。落札者の名前は黒塗りになり、認証番号は見る者ごとに変わり、正統とされた郷土料理ほど『贋』と判定されるようになる。《シビュラ崇徳》は、制度が必死に守ってきた国家的正しさそのものへ祟り返す。最適化の終点に待っていたのは、最も古く、最も理屈の通らない王権の亡霊である。

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