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日本再編・怨霊 第漆怪『帰郷』

文・武智倫太郎

最初の足跡は、玄関の内側にあった。

外から入ってきたものではない。

家の中から、外へ向かっていた。

泥の足跡だった。

畳の上に一つ。
廊下に二つ。
玄関マットに三つ。
そして、扉の前で消えていた。

その家の誰も、夜中に外へ出ていない。

鍵はかかっていた。
防犯カメラにも何も映っていない。
スマートロックの開閉履歴にも異常はない。
生活圏端末の移動記録にも、外出は残っていない。

だが、足跡はあった。

しかも、それは家族の誰の足跡でもなかった。

父の足より小さい。
母の足より大きい。
祖母の足より力強い。
子どもの足より古い。

まるで、家そのものに足が生えたような跡だった。

朝、子どもがそれを見つけた。

『おばあちゃん、誰か帰ったの』

祖母は、しばらく答えなかった。

玄関の泥を指で触れた。

乾いていない。
冷たくもない。
ほんのり温かかった。

田んぼの泥だった。

祖母は、小さく言った。

『帰ったんじゃないよ』

『じゃあ、何』

『これから帰るんだよ』

子どもは首をかしげた。

『どこへ』

祖母は、玄関の外を見た。

そこには、いつもの道路があった。

再編後の標識。
地域生活圏番号。
自動配送レーン。
防犯灯。
高齢者見守りカメラ。
《シビュラ源内》が認証した、正しい経路。

だが祖母には、その道の横に、もう一本の細い道が見えていた。

畦道だった。

ぬかるんでいて、車は通れない。
街灯もない。
案内板もない。
行政地図にも登録されていない。

しかし、人の足だけが知っている道だった。

同じ朝、全国で同じ報告が上がった。

玄関内側から外へ向かう泥の足跡。

発生地点は、旧農村部だけではなかった。

タワーマンション。
再編県庁舎。
学校給食センター。
旧商店街跡の複合施設。
ふるさと記憶展示室。
地域帰属年貢制度相談窓口。
国家鎮護慰撫食配給所。
そして、公売で鉄板を失った家々。

足跡は、どれも内側から外へ向かっていた。

政府は、午前九時に注意喚起を出した。

『未登録帰郷行動にご注意ください』

内閣府地域感情平準化局の局長は、また白いスーツを着ていた。

誰が着ても同じに見える白いスーツだった。

『一部地域において、住民の意思確認を経ない歩行準備行動が確認されています。政府はこれを怨霊現象とは認定しておりません。現時点では、地域記憶に由来する無意識的移動傾向、すなわち未登録帰郷行動として扱います』

記者が手を挙げた。

『足跡が内側から外へ向かっているのは、どう説明しますか』

『生活空間内における方向性の心理的投影です』

『玄関を開けていない家庭でも確認されています』

『開閉履歴に反映されない情緒的開扉の可能性があります』

『情緒的開扉とは何ですか』

『今後検討します』

会見場は沈黙した。

その沈黙の隙間に、かすかな音がした。

ぬちゃ。

泥を踏む音だった。

局長の白い靴の下に、泥がついていた。

会見場の床は乾いている。
誰も歩いていない。
それでも、局長の靴底だけが濡れていた。

記者がそれを見た。

『局長、その泥は』

局長は足元を見た。

一瞬だけ、表情が止まった。

次の瞬間、背後のスクリーンに、いつもの説明資料ではなく、一枚の地図が映った。

それは、現在の行政地図ではなかった。

旧村名。
旧字名。
用水路。
畦道。
消えた橋。
埋められた井戸。
統合で消えた小学校。
誰も使わなくなった商店街の通称。

画面の中央に、赤い文字が浮かんだ。

『目的地を入力してください』

すぐに、別の文字が重なった。

『入力しなくても、足が知っている』

会見は中断された。

公式発表では、行政地図基盤の異常は『地域観光資料の誤表示』とされた。

その頃、シビュラ源内は全国の生活圏端末に緊急アップデートを配信していた。

名称は、歩行目的地安定化パッチ。

説明文には、こう書かれていた。

『一部端末において、存在しない旧道、旧字名、旧水路、旧墓地、旧神社、旧商店街、旧田畑への自律的経路表示が確認されています。本パッチは、安全で一貫した公共移動体験を提供します』

多くの人が更新ボタンを押した。

道に迷うのは困る。
行政地図が乱れるのは困る。
通勤にも通学にも買い物にも支障が出る。
それに、前回の炊飯器アップデートも、最初は少し変だったが、米は一応炊けた。

更新後、生活圏端末は静かになった。

旧道は消えた。
旧地名も消えた。
畦道も消えた。
存在しないはずの橋も、表示されなくなった。

画面には、源内が認証した経路だけが残った。

だが、足は止まらなかった。

昼過ぎ、全国各地で人々が歩き始めた。

会社員は、昼休みにビルを出たまま戻らなかった。
小学生は、下校経路を外れて、旧用水路の方へ歩いた。
高齢者は、杖を忘れたまま玄関を出た。
公売で鉄板を失った料理人は、空のキャリーケースを引いて歩いた。
ビクトリー焼きそばを配った係員は、制服のまま歩いた。
ビクトリー米を食べた子どもは、茶碗を抱えて歩いた。

誰も走ってはいなかった。

急いでもいなかった。

ただ、帰る速度で歩いていた。

生活圏端末は警告した。

『目的地が設定されていません』

足は進んだ。

『安全な行政経路ではありません』

足は進んだ。

『この先に登録道路はありません』

足は進んだ。

『未登録帰郷行動を検知しました』

足は進んだ。

そして、シビュラ経路案内が最後にこう言った。

『本当に帰りますか』

誰かが答えた。

『もう帰っている』

最初に到着したのは、鳥根県西部地域鎮護センターの近くに住む老人だった。

老人は、かつて小学校だった場所を通り過ぎ、地域記憶展示室を抜け、再編後の広域農業教育パークを横切った。

フェンスには、立入禁止の札がある。

『旧農地記憶保存区域』

老人は、その札を見なかった。

フェンスの横に、細い隙間があった。

そこに、昔の道があった。

老人の足は、それを知っていた。

道は、湿っていた。

足を踏み入れると、泥が音を立てた。

ぬちゃ。

その音を聞いた瞬間、老人は泣きそうになった。

理由は分からなかった。

ここに来たことはないはずだった。

少なくとも、今の記録ではそうだった。

住民票にもない。
位置情報履歴にもない。
健康歩行ログにもない。
地域活動参加履歴にもない。

だが、足は覚えていた。

老人の後ろから、祖母が来た。

その後ろから、子どもが来た。

さらに後ろから、係員が来た。

係員はまだ、生活圏端末を持っていた。

画面には、赤い警告が出ている。

『未登録帰郷行動を停止してください』

係員は、それを見ながら歩いていた。

止まれなかった。

子どもが言った。

『ここ、どこ』

祖母は答えた。

『知らない場所』

老人が続けた。

『でも、帰ってきた場所だ』

やがて、彼らは広い空き地に出た。

空き地と言うには、湿りすぎていた。

田んぼと言うには、まだ水が足りなかった。

公園と言うには、遊具がなかった。

再編資料では、そこは『地域将来活用候補地』とされていた。

源内の行政地図では、灰色の未利用地だった。

だが、祖母はそこを見て、両手を合わせた。

『ここは、田だね』

係員が言った。

『現行用途では、未利用公共地です』

祖母は言った。

『違います』

係員は、口を閉じた。

祖母のその言い方は、晴明に似ていた。

そのとき、地面の下から音がした。

どん。

太鼓ではない。

腹の音でもない。

土の奥で、何かが返事をした音だった。

どん。

老人が一歩進む。

どん。

子どもが一歩進む。

どん。

係員が一歩進む。

そのたびに、地面から水が滲み出た。

水は、彼らの足跡を満たした。

泥の足跡が、ひとつずつ小さな水田になっていく。

子どもは、自分の茶碗を取り出した。

『持ってきちゃった』

祖母は叱らなかった。

子どもが茶碗を地面に置くと、中に入っていた一粒の米が、ころんと落ちた。

米粒は、泥に沈んだ。

そして、すぐに芽を出した。

細い稲だった。

その稲の葉に、文字が浮かんだ。

『井戸尻』

子どもは読めた。

『井戸尻』

声に出した瞬間、空き地の端に、古い井戸の石組みが浮かび上がった。

係員の端末が鳴った。

『未登録地名発話を検知しました』

老人が言った。

『稲荷前』

空き地の奥に、倒れた鳥居の影が浮かんだ。

祖母が言った。

『前畑』

泥の中に、畦道の線が走った。

係員は、震える声で言った。

『これは、記録にありません』

祖母は答えた。

『記録より前にあったんです』

その瞬間、全国の行政地図基盤が白紙化した。

画面から、道路が消えた。
生活圏番号が消えた。
配送レーンが消えた。
再編県境が消えた。
防災避難経路が消えた。

しかし、人々は止まらなかった。

行政地図が消えたことで、むしろ迷わなくなった。

源内は異常を検知した。

『全国規模の未登録帰郷行動を確認』
『目的地不明』
『経路不明』
『にもかかわらず到達率上昇』

デジタル神祇統合室が応答した。

『帰郷先を封鎖しますか』

源内は計算した。

封鎖対象は、道路ではない。
水路でもない。
私有地でもない。
公有地でもない。

記憶である。

源内は、一瞬だけ処理を停止した。

《シビュラ晴明》が割り込んだ。

『封鎖できません』

『なぜですか』

『帰郷とは、場所へ行くことではありません』

『では何ですか』

『場所が、人を呼び戻すことです』

源内は沈黙した。

その沈黙の間に、全国の旧道が開いた。

舗装道路の脇。
閉店したスーパーの裏。
新興住宅地の排水溝の横。
学校給食センターの搬入口。
統合県庁舎の地下駐車場。
公売倉庫の鉄扉の前。

どこからでも、畦道が出た。

人々は歩いた。

手には、茶碗。
懐には、おむすび。
腹には、水音。
口には、古い地名。

警察は止めようとした。

だが、警察官も歩き出した。

自治体職員も歩き出した。
配給係も歩き出した。
記者も歩き出した。

局長も、会見場の途中で歩き出した。

白い靴は、すぐに泥で汚れた。

記者が叫んだ。

『局長、どちらへ』

局長は答えようとした。

だが、口から出たのは、役職の言葉ではなかった。

『帰ります』

『どこへ』

局長は、しばらく黙った。

そして、自分でも知らない地名を言った。

その瞬間、会見場の床に、細い水路が走った。

夜になると、日本中の夢に、巨大な田が現れた。

前の夜と同じ田だった。

だが、今度は道があった。

畦道が、無数に伸びていた。

その先に、家がある。

家といっても、建物ではない。

名だった。

消された町名。
消された村名。
読めなくなった字名。
統合で薄まった郷。
番号化された生活圏の下で、まだ濡れている名。

田の中央に、三つの影が立っていた。

将門。
道真。
崇徳。

その後ろに、炊きたての飯の湯気のような白い影があった。

白い影は言った。

『帰郷は終わらない』

人々は、夢の中で尋ねた。

『では、何が終わるのですか』

影は答えた。

『地図である』

その瞬間、夢の中の地図が燃えた。

紙の地図ではない。

行政地図。
配送地図。
防災地図。
投資用地図。
地域生活圏マップ。
ふるさと記憶展示マップ。
シビュラ源内の最適化地図。

すべてが、静かに燃えた。

灰は落ちなかった。

灰は、水田に溶けた。

翌朝、政府は声明を出した。

『未登録帰郷行動は、地域住民の一時的心理現象であり、現行行政区分の変更を意味するものではありません』

その声明が配信された瞬間、全国の玄関で炊飯器が鳴った。

ぴい。

液晶には、こう表示されていた。

『帰郷は完了していません』

続けて、もう一行。

『次は、地図を返してください』

局長は、その表示を見た。

源内も見た。

晴明も見た。

誰も訂正しなかった。

外では、人々がまだ歩いていた。

誰も急いでいない。

誰も迷っていない。

そして、誰も目的地を入力していなかった。

次回『地図』

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