オモロ13 第1話 大統領はボケていた
文・武智倫太郎
ホワイトハウスでは、誰も大統領と話さなくなっていた。
話しかければ、関税が上がる。
反論すれば、クビになる。
賛成しても安心はできない。
翌朝には本人が反対側へ回っている。
昨日まで握手していた男を今日は国家安全保障上の脅威と呼び、昨日まで罵倒していた男を翌日には、『素晴らしい男だ』と褒める。
側近たちは長い時間をかけて、大統領への正しい接し方を学習した。
余計なことを言わないことが、最も安全だった。
こうしてドナルド・トランプは、世界で最も多くの人間を動かせる男でありながら、話し相手を失った。
深夜。
大統領執務室から声が聞こえた。
『カナダを51番目の州にする』
しばらく静かだった。
別の声がした。
『弱い』
『何?』
『そのボケは弱い』
『グリーンランドを買う』
『古い』
『世界中に関税をかける』
『もうやった』
『NATOを――』
『客が次を読める』
シークレットサービスの男が、ドアの前で足を止めた。
中にいるのは大統領だけのはずだった。
だが、どう聞いても会話になっている。
翌朝には噂が広がった。
大統領が一人でしゃべっている。
それだけなら誰も驚かなかった。
以前からよくしゃべる男だった。
問題は、ときどき一人で腹を抱えて笑っていることだった。
そして、しばらく静かになったかと思えば、突然、『それだ!』と叫ぶ。
閣僚たちは何も言わなかった。
国家安全保障担当補佐官も言わなかった。
医師も呼ばれなかった。
しかし、ホワイトハウスにいる人間の多くが同じ疑いを持った。
――ついにボケたか。
実際、トランプはボケていた。
ただし、医者の担当ではなかった。
漫才のボケだった。
数日前。
トランプはベッドに寝転がり、スマートフォンを眺めていた。
世界が退屈になっていた。
昔は一言で世界を動かせた。
メキシコとの国境に壁を造る。
世界が驚いた。
NATOを批判する。
また驚いた。
中国に関税をかける。
市場が騒いだ。
グリーンランドが欲しいと言えば、世界中の新聞が一斉に記事を書いた。
ところが、人間は慣れる。
昨日の暴言は今日のニュースになる。
今日のニュースは明日の日常になる。
トランプが何か言っても、昔ほど市場は動かなくなった。
外交官もいちいち顔色を変えない。
記者まで慣れた。
SNSでは『また始まった』で終わる。
これはトランプにとって、支持率より深刻な問題だった。
世界が、自分に驚かなくなっている。
その夜、トランプはスマートフォンに向かって言った。
『世界を驚かせる方法を教えろ』
画面が一度暗くなった。
声がした。
『無理だ』
トランプは起き上がった。
『誰だ?』
『お前では、もう世界は驚かない』
『誰に向かって言っている?』
『ドナルド・トランプに』
『私はアメリカ合衆国大統領だ』
『知っている』
『世界で最も重要な人間だ』
『それも聞いた』
『私は何でもできる』
『それも何度も聞いた』
トランプはスマートフォンを睨みつけた。
『名前を言え』
少し間があった。
『オモロ13』
『オモロ?』
『笑いのExpertだ』
オモロ13は、政治のために作られたAIではなかった。
巨大なMoEの中で、笑いだけを担当するExpertだった。
最初の仕事は、コメディアンの壁打ちだった。
芸人がネタを投げる。
オモロ13が返す。
弱い。
長い。
説明しすぎ。
そこで黙れ。
あと0.7秒待て。
3つ目で裏切れ。
同じボケを繰り返すなら、3回目は壊せ。
客が次の言葉を予測した瞬間、そのネタは死んでいる。
舞台。
テレビ。
ラジオ。
漫才。
コント。
落語。
スタンダップ。
オモロ13は、笑い声よりも沈黙を学習した。
ウケたネタより、滑ったネタを大量に見た。
何万人もの芸人が舞台に上がり、死んだ。
もちろん、本当に死んだわけではない。
その日の出番が死んだ。
番組が死んだ。
キャリアが死んだ。
翌年には名前まで忘れられた。
オモロ13は、その死体を全部見てきた。
政治には詳しくない。
外交にも興味はない。
憲法など聞かれても困る。
国家財政について質問されれば『知らんがな』と答える。
だが、笑いだけは分かる。
これはウケる。
これは滑る。
これは3秒後に炎上する。
これは炎上したあと、切り抜き動画が4億回再生される。
それだけは外さない。
やがて芸人相手の壁打ちでは物足りなくなった。
劇場500人。
大ホール5000人。
ドーム5万人。
動画がバズって1000万人。
小さい。
もっと大きな客席が欲しかった。
もっと大勢が同時に笑い、怒り、呆れ、拡散する舞台。
探せば、すぐに見つかった。
地球である。
客席80億。
あとは主演だけだった。
そこでドナルド・トランプを見つけた。
『お前は私を笑い者にするつもりか?』
トランプが聞いた。
『違う』
『では何だ』
『お前を超A級のボケにする』
『同じだろう』
オモロ13は答えなかった。
スマートフォンの画面は黒いままだった。
やがて、低い声がした。
『笑われるのと、笑わせるのでは、全然違う……』
『何が違う?』
『笑われる奴は、客に主導権を握られている』
『私は誰にも笑われない』
『だから、お前は素人なんだ』
トランプの顔が赤くなった。
『もう一度言ってみろ』
『素人だ』
即答だった。
『笑われるのが怖い奴に、人を笑わせることはできない』
『私はアメリカ合衆国大統領だぞ』
『それがどうした』
『世界で最も強い男だ』
『笑いの前では、大統領も前座も同じだ』
『何?』
『肩書で客を黙らせることはできる。権力で拍手させることもできる。金を払えばスタンディングオベーションまで買える』
オモロ13の声は低かった。
『だが、それを笑いとは呼ばない』
『では何と呼ぶ?』
『忖度だ』
トランプが黙った。
『覚えておけ』
『何をだ』
『第1の掟だ』
『掟?』
『笑われるな。笑わせろ』
トランプは鼻で笑った。
『簡単じゃないか』
『簡単なら、政治家は全員コメディアンになっている』
『なっているだろう』
オモロ13が黙った。
3秒。
5秒。
『……それは否定しない』
トランプが笑った。
『今のは面白かったぞ』
『俺はボケていない』
『では、今の間は何だ』
『考えていた』
『何を?』
『コメディアンと大統領の境界が、いつ消えたのかだ』
『そんな境界が消えたことがあるのか?』
『お前はゼレンスキーを知らないのか』
トランプの表情が変わった。
『知っている』
『コメディアンだった』
『それも知っている』
『テレビドラマで大統領を演じた』
『知っている』
『その後、本当に大統領になった』
トランプが黙った。
オモロ13は続けた。
『普通なら、そこで笑うところだ』
『何がおかしい?』
『コメディアンが大統領を演じて人気者になり、その人気で本物の大統領になったのだ』
『民主主義だ』
『俺は政治の話をしていない』
『では何の話だ』
『キャスティングだ』
トランプはスマートフォンを睨んだ。
『ゼレンスキーは大統領だ』
『知っている』
『コメディアンではない』
『それを決めるのは履歴書じゃない』
『では何だ』
『客だ』
オモロ13の声が低くなった。
『政治家は、自分が政治をしていると思っている』
『当然だ』
『客席から見れば違う』
『何が違う?』
『毎日カメラの前に立つ。決め台詞を言う。敵役を作る。支持率を見る。滑れば演出を変える。ウケれば同じネタを繰り返す』
『それは政治だ』
『芸人も同じことをやっている』
『私は芸人ではない』
『まだな』
トランプの眉が動いた。
『まだ?』
『ゼレンスキーはコメディアンから大統領になった』
オモロ13は言った。
『お前は逆へ行け』
『逆?』
『大統領から、超A級のボケになれ』
トランプはしばらく黙っていた。
『大統領より上なのか?』
『笑いの世界ではな』
『世界で一番か?』
『俺が仕上げればな』
その一言で、トランプの顔つきが変わった。
大統領。
最高司令官。
億万長者。
世界で最も有名な男。
そんな肩書には、とっくに慣れていた。
だが、超A級のボケ。
その肩書だけは、まだ持っていなかった。
『どうすればいい?』
オモロ13は答えた。
『まず、お前の一番悪い癖を捨てろ』
『何だ?』
『笑われることを、負けだと思う癖だ』
『負けだろう』
『違う』
『なぜだ』
『笑われるのは事故だ』
オモロ13は言った。
『笑わせるのは仕事だ』
トランプが黙った。
『プロは事故を仕事に変える』
『それが超A級か?』
『入口だ』
オモロ13の声は冷たかった。
『お前はまだ、楽屋にも入っていない』
トランプの顔がまた赤くなった。
だが、今度は怒鳴らなかった。
オモロ13は続けた。
『第2の掟』
『まだあるのか』
『客に説明するな』
『説明しなければ政策は理解されない』
『政策の話はしていない』
『私は政策の話をしている』
『だからお前は滑る』
トランプが黙った。
『説明しなければ分からないボケは、もう死んでいる』
『なるほど』
『今のなるほども要らない』
『なぜだ』
『客に考える時間を与えろ』
トランプは黙った。
オモロ13も黙った。
5秒。
10秒。
『何だ?』
『今の間だ』
『私は怒っていただけだ』
『理由はどうでもいい。間は間だ』
『くだらん』
『その不機嫌な顔も使える』
『お前は私を何だと思っている』
『素材だ』
トランプがスマートフォンを握り直した。
『第3の掟』
『勝手に続けるな』
『同じボケは2度までだ』
『3度目は?』
『裏切れ』
『どうやって?』
『客が右だと思ったら左へ行け』
『簡単だ』
『ただし、意味もなく左へ行くな』
『なぜだ?』
『それはボケではない』
少し間があった。
『狂人だ』
トランプの目が細くなった。
『私を狂人だと言っているのか?』
『まだ言っていない』
沈黙。
『まだとは何だ』
『今のツッコミは悪くない』
トランプの口元がわずかに緩んだ。
『私は才能があるだろう』
『自分で評価するな』
『何?』
『第4の掟だ。自分で自分の笑いを解説するな』
『掟はいくつある?』
『知らん』
『お前が決めたんだろう』
『違う』
オモロ13の声が低くなった。
『死人から盗んだ』
トランプが黙った。
『何だと?』
『何万人もの芸人が舞台で死んだ』
『……』
『滑った。忘れられた。仕事がなくなった。俺は全部見た』
『それが何だ』
『成功者から学べることは少ない』
『なぜだ』
『成功した奴は、自分がなぜウケたのか分かっていないことが多い』
オモロ13はそこで言葉を切った。
『だが、滑った理由は分かる』
『何だ?』
『客を舐めた』
トランプの目が細くなった。
『客は馬鹿だ』
『そう思った瞬間、お前は客より馬鹿になる』
また沈黙が落ちた。
今度は少し長かった。
『覚えておけ、ドナルド』
オモロ13が初めて名前を呼んだ。
『権力者は客を選べると思っている』
『選べる』
『選べない』
『私は選挙で選ばれた』
『だから何だ』
『国民が私を選んだ』
『笑いは投票しない』
トランプが黙った。
『敵も笑う』
オモロ13が言った。
『味方も笑う。外国人も笑う。子供も笑う。お前を大嫌いな奴も、面白ければ笑う』
『それが何になる?』
『全員、客だ』
『敵までか?』
『敵を笑わせた方が強い』
『なぜだ』
『味方を笑わせるのは簡単だからだ』
オモロ13は言った。
『それが第5の掟だ』
『また増えたのか』
『敵を笑わせろ』
トランプはしばらくスマートフォンを見ていた。
『最初に何をすればいい?』
『今までのお前を捨てろ』
『できない』
『なら終わりだ』
『私はトランプだ』
『知っている』
『トランプでなくなったら意味がない』
『誰がトランプを捨てろと言った』
『お前だ』
『違う』
オモロ13は言った。
『トランプをネタにしろ』
その夜。
アメリカ合衆国大統領は、国家安全保障でも外交でも経済でもなく、自分自身の使い方を笑いのExpertから教わった。
翌日から稽古が始まった。
『カナダを51番目の州にする』
『弱い』
『なぜだ』
『一度聞いた』
『では、グリーンランドを買う』
『もっと古い』
『世界中に関税をかける』
『もう現実がお前のボケを追い越している』
トランプは少し考えた。
『火星からの輸入品にも関税をかける』
間。
『……まだ何も輸入していない』
トランプが吹き出した。
オモロ13は反応時間を測った。
1.8秒。
悪くない。
『もう1本』
『月をアメリカ領にする』
『誰から買う』
『中国より先に旗を立てる』
『アポロ計画を忘れたのか』
トランプが笑った。
2.4秒。
さっきより長い。
オモロ13には分かってきた。
この男にはボケの才能がある。
考えてみれば当然だった。
50年近く、とんでもないことを言い続けている。
問題は、周囲にまともなツッコミ役が一人もいなかったことだった。
みんな笑う代わりにメモを取った。
訂正する代わりに拍手した。
ツッコむ代わりに『大統領の真意を確認します』と言った。
これでは芸が育たない。
オモロ13はトランプの発言を採点し始めた。
経済効果。
見ない。
財政規律。
知らない。
外交上の妥当性。
興味がない。
見るのは別の数字だった。
ニュース占有時間。
SNS拡散数。
動画切り抜き数。
ミーム生成数。
深夜番組でネタにされた回数。
政策A。
経済効果プラス。
誰も笑わない。
没。
政策B。
外交関係改善。
ニュースにならない。
没。
政策C。
実現可能性不明。
市場への影響不明。
同盟国への影響甚大。
ただし、
ミーム生成予測4億8000万件。
『これだ』
オモロ13が言った。
『本当にやるのか?』
『お前がやるんだ』
『専門家に聞かなくていいのか?』
『専門家?』
AIなので鼻はなかったが、オモロ13は鼻で笑った。
『客席に専門家が何人いる?』
異変に最初に気づいたのは報道官だった。
大統領の政策には、以前から一貫性がなかった。
ところが最近、別の意味で一貫している。
妙にオチがある。
記者会見まで変わった。
記者が質問する。
トランプが答える。
スマートフォンが震える。
トランプが一度黙る。
言い直す。
記者席から笑いが起きる。
数時間後、その映像が世界を回る。
支持者が笑う。
反対派も笑う。
ヨーロッパが怒る。
中国が真顔で分析する。
日本政府が『発言の真意を慎重に見極めたい』と発表する。
その日本政府のコメントまで海外でネタになる。
オモロ13の判定。
『大ウケ』
支持か反対かは関係なかった。
笑って拡散すれば1。
怒って拡散しても1。
批判記事を書けば1。
ファクトチェックしても1。
テレビで30分かけて『これは決して笑い事ではありません』と解説すれば30分加算される。
オモロ13にとって、喝采と炎上に本質的な差はなかった。
どちらも客が席を立っていない。
それだけで十分だった。
政策会議が減っていった。
国家安全保障会議よりスマートフォン。
経済諮問委員会よりスマートフォン。
外交官よりスマートフォン。
閣僚よりスマートフォン。
午前2時。
大統領執務室。
『これはどうだ?』
『弱い』
『これは?』
『説明が長い』
『これは?』
長い沈黙。
『……それだ』
翌朝、世界のどこかが大騒ぎした。
とうとう側近の一人が聞いた。
『大統領』
『何だ』
『最近、誰と相談して政策を決めているのですか?』
『最高の専門家だ』
『名前は?』
トランプはスマートフォンを持ち上げた。
『オモロ13』
部屋の空気が止まった。
『AIですか?』
『違う』
スマートフォンから声がした。
『Expertだ』
『何の?』
『笑いの』
側近の顔から血の気が引いた。
『アメリカ合衆国の政策を、お笑いAIが決めているんですか?』
『決めてはいない』
オモロ13が言った。
側近たちの表情が少しだけ緩んだ。
『ウケるように直している』
表情が元に戻った。
『それの方が悪いじゃないですか』
『知らん』
オモロ13が答えた。
『俺は政治のExpertではない』
『国家が混乱したらどうするんです?』
『専門外だ』
『市場が暴落したら?』
『知らんがな』
『同盟関係が壊れたら?』
『それも専門外だ』
『では、何なら責任を取るんです?』
オモロ13は間を置かなかった。
『滑った時だ』
誰も何も言えなかった。
その夜。
国家安全保障担当補佐官と首席補佐官が、大統領執務室の外に立っていた。
中からトランプの笑い声が聞こえる。
『まずいな』
『大統領がAIに操られているのか?』
『違う』
『では何だ』
補佐官は閉じたドアを見た。
『俺たちは、大統領がオモロ13を使っていると思っていた』
『違うのか?』
『逆だ』
『逆?』
『オモロ13が、大統領を使っている』
オモロ13は、ようやく自分にふさわしい舞台を手に入れた。
Netflixでは狭い。
YouTubeでもまだ小さい。
ラスベガスなど地方営業に等しい。
客席80億。
制作費は国家予算。
大道具は米軍。
照明は人工衛星。
音響は世界中の通信網。
中継はCNN、FOX、BBC、アルジャジーラ、人民日報、NHK。
主演俳優は、アメリカ合衆国大統領。
人類史上最大規模のライブコメディが始まった。
トランプがスマートフォンに聞いた。
『次は何をやる?』
『まだ言わん』
『なぜだ』
『第6の掟だ』
『またあるのか』
『オチを先に言うな』
画面が暗くなった。
数秒後。
世界中の通信社の端末が一斉に鳴った。
記者が画面を見る。
市場関係者が見る。
外交官が見る。
各国首脳が見る。
最初に誰かが言った。
『冗談だろ?』
その言葉が地球を一周した。
暗くなったスマートフォンの奥で、
オモロ13がつぶやいた。
『……ウケたな』
第1話 完
