千鳥居(せんとりい)のもとで(18)──置き手紙
【前回までのあらすじ】
美咲は京都へ駆けつけ、あかりの話を信じてくれた。玄夜が消えるほど強く、あかりを現実へつなぎ止める。けれど深夜、玄夜は儀式を早めると言い、あかりは美咲に置き手紙を残して家を出た。煤色の線は、心臓を越えていた。
残り、36日。
御膳谷の入り口で、あかりは足を止めた。雨上がりの夜だった。苔むした古い参道は月明かりを吸い込むように濡れていて、奥へ進むほど木々の影が深くなる。その闇の先に、煤を水で溶いたような、ぼんやりと黒い人影が立っていた。
玄夜だった。雲の切れ間から落ちた薄い月の光が、その肩を白く撫でる。
「お待ちしていました」玄夜の声は、低く、優しかった。「ご足労ありがとうございます」
深く頭を下げる仕草は、縁側で湯気を眺めていたときの彼とは違って、どこか儀式めいていた。あかりは袖の下の左手を握りしめる。
谷の奥には、古い祭壇があった。苔に覆われ、長いあいだ誰の手も入っていないことがひと目でわかるのに、石の真ん中だけは雨に濡れていない。
「ここに、座っていただけますか」
あかりは祭壇の前に座った。石の冷たさが膝から体へ上がってくる。痛みはない。ただ、少しずつ、自分の体が遠くなっていく感覚があった。
「ご安心ください。私がご一緒します」
玄夜がゆっくり目を伏せた。その瞼の動きは、なぜかひどく疲れて見える。千二百年ぶんの夜を、そこに閉じ込めているようだった。やがて玄夜は、低く祝詞を唱え始める。聞いたことのない古い言葉だった。意味はわからないけれど、ひとつひとつの音が皮膚に薄く沁みてくる。煤色の線が、首から肩へ、肩から胸へ、ゆっくり広がっていった。
朝の光が、障子越しに差し込んでいる。美咲は夢のなかで、誰かの手を握っていた。冷たい手だった。握り返してくる力が、いつもより弱い。
「あかり! 起きて!」
そう呼んだ瞬間、握っていたはずの感触がふっと消えた。美咲は目を覚ます。寝室の天井、古い梁の影、隣の布団。そして昨夜、自分が握っていた手の持ち主。
いない。
美咲は一瞬、布団のなかで動けなかった。
「あかり!」
声に出して呼ぶ。返事はない。台所からも、縁側からも、物音ひとつしなかった。布団から飛び起き、寝室を見回すと、枕元に紙片が一枚置かれていた。あかりの字だった。
『先に出ます。ごめん。朝、目を覚まして私が戻っていなかったら、お吉さんを呼んでください。ぬか漬けは、最後の一切れ、美咲のために残しておきました。あかり』
美咲はその紙片を握りしめた。
「ぬか漬けって書くな、こんな時に。なんで勝手に行くのよぉ!」
声が震える。泣くより先に笑いがこぼれ、笑いと嗚咽が同時に喉から出てしまう。それから、美咲は、おぼつかない指でスマホを取った。連絡先のなかから、ひとつだけ目に飛び込んでくる名前がある。お吉さん。昨夜、あかりが教えてくれた番号だ。
「もしもし」
電話の向こうで、低い京都弁の声がした。
「お吉おばあさんですか? 美咲です。あかりの友達の」
「うん」
「あかりが、いなくなりました」
向こうでしばらく沈黙があった。それから、お吉の声が低くはっきり返ってくる。
「わかった。動かんと、そこにおり」
電話が切れた。美咲は紙片をもう一度見る。
「ぬか漬けって、ばかじゃないの」
呟いた声は、自分のものとは思えないほど頼りなかった。それから、もう一度スマホを開く。連絡先のなかに、もうひとつ登録されている名前があった。あかりのお母さん。昨夜あかりがふと、「母の番号、もし何かあったら押して」と教えてくれた番号だった。美咲は息を吸い、ボタンを押す。
「もしもし」
電話の向こうで、低い女性の声がした。
「……一ノ瀬美咲です。あかりさんの、東京の友人です」
一瞬、息を呑む気配があった。
「あかりが、いなくなりました」
「いま、どこ」
「京都です。御膳谷、というところに向かったみたいで」
沈黙は、ほとんどない。
「すぐ行きます」
電話が切れた。短い電話だった。けれど美咲には、その短さが何より母親の声に聞こえる。なにもかもわかっている人の声に思えた。
祭壇の上で、あかりの煤色の線は、もう胸の上を覆っている。玄夜の祝詞は深まっていった。低く、低く、谷の底へ沈んでいくような音だった。あかりは、自分の体が少しずつ重くなっていくのを感じる。重いというより、遠い。指先の感覚が薄くなっていく。
その時、玄夜がふと祝詞を止めた。
「もう少しです」
声は優しい。優しすぎて、何かを必死で押し殺しているように聞こえた。あかりは玄夜の顔を見上げる。苦しそうだった。千二百年生きた者が、今自分のしていることに、心のどこかで抗っているように見えた。
「玄夜さん」
あかりは低く呼んだ。痺れていく舌で、それでも言葉を探す。一年間、原稿の行間を読んできた。書かれていないものを読むのが、編集者の仕事だった。——この人は、いま、書かれていないことを、必死で隠している。
「あなた、本当にこれでいいんですか」
玄夜の瞼が、わずかに震える。
「あなたは、朝霧さんを解放したいんじゃない」あかりは続けた。声が掠れる。「あなたが、消えてしまいたいだけ。これは、贖罪じゃなくて——逃げです」
玄夜の祝詞が、ひとつ、つかえた。
「……黙って、ください」初めて、玄夜の声に揺れが混じる。「あなたに、何がわかる」
「わかります。私も、逃げようとしたから」あかりは、煤色に侵されかけた喉で言った。「忘れることで、玖夜から逃げようとした。だから、わかるんです。あなたのそれは、朝霧さんのためじゃない。あなた自身のため」
玄夜の手が、宙で止まった。祝詞が途切れ、煤色の線の進みが、ほんの少し遅くなる。月の光のなかで、玄夜の輪郭が、迷うように滲んでいる。あかりは、確かに何かに届いた、と思った。届いたのに、それを最後まで言葉にする前に、痺れが喉まで上がってきた。
玄夜は、目を閉じた。それから、もう一度、祝詞を唱え始める。さっきより、低く。何かを振り切るように。煤色の線が、首から顎へ伸びていった。
「あなたに、揺らされるわけには、いかないのです」
その声が、いちばん、苦しそうだった。
お吉の茶屋の勝手口が勢いよく開いた。
「ばあさん、こういう日のために生きてきた」
そうひとり呟いて、お吉は雨上がりの参道を走り出す。七十を越えた足だった。それなのに、石段を二段飛ばしで上がっていく。伏見の境を守ってきた十何代ぶんの足が、今お吉のなかで動いていた。向かう先は、神宮雅彦の社務所だった。
神宮雅彦は、奥の社務所で朝の祝詞をあげていた。祝詞の途中で声が不意に途切れる。社務所の奥に掛けられた古い鈴が、誰も触れていないのにかすかに鳴ったのだ。雅彦は顔を上げる。御膳谷のほうで何かが動いている。人の耳には聞こえないほど低い、お山の警告だった。
「……御膳谷か」
雅彦は低く呟いた。その時、勝手口から声が届く。
「神宮はん。神宮はん」
お吉の声だった。雅彦は祝詞を止め、立ち上がる。
「お吉ばあさん」
「あかりちゃんが、おらん」
「御膳谷ですか」
「……たぶん、そや」
雅彦の顔から血の気が引いた。彼は社務所の奥へ向かい、古い木札の前に立つ。お山の眷属たちと、人間の社家をつなぐための札だった。雅彦が、その札に手を触れる。
「嵯峨どの」
低く、呼んだ。
お山の奥。嵯峨は玖夜のそばに座っていた。玖夜は神性を削られ、目を閉じたまま動かない。銀の髪は静かに畳へ流れ、白い袖はかすかに透けて見えた。そこへ、薄い風が嵯峨の青磁色の袖を撫でる。
嵯峨の目が開いた。
人の声が、風に乗って届いた気がした。
嵯峨どの。雅彦の声だった。
「主」
嵯峨は低く呼んだ。玖夜は答えない。
「主」
もう一度呼び、嵯峨はそっと玖夜の袖に触れる。その瞬間、玖夜の銀の睫毛がわずかに動いた。
「主。あかりさまが」
玖夜の目が開く。千二百年ぶんの銀の瞳がゆっくり嵯峨を見た。
「御膳谷」
玖夜は、それだけ呟いた。そして、立ち上がろうとする。体は言うことを聞かない。神性は、もうほとんど残っていない。それでも玖夜は、立ち上がった。
「主。お止めしたい」
嵯峨が言う。
「行けば、消えます」
「知っている」
「主」
「俺は」
玖夜は、かすれた息をひとつこぼした。
「あかりに、もう一度、会うために生きている」
嵯峨は、それ以上何も言えなかった。玖夜は立っているだけで、今にも崩れそうだった。けれど、その目だけはまっすぐ御膳谷の方角を見ている。あの雨の鳥居の下で、あかりを抱きしめた時と同じ目だった。手放すためではない。今度こそ、迎えに行くための目だった。
祭壇の上で、あかりの体が光に包まれ始めた。煤色の線は、もう首を越えている。顎の下まで、薄く煤の色が広がっていた。
「もう少しです」
玄夜は、もう一度言った。
「朝霧。やっと、あなたを解放できる」
その声が震えていた。朝霧。その名前を、玄夜が初めて口にした。あかりには、それがわかった。この人は、千二百年、その名前を口にできなかったのだ。
そう思った瞬間、あかりの目から思わず涙が一粒落ちた。煤色に染まりかけた頬を、静かに流れていく。
「玄夜さん」
あかりは、ようやく言った。
「あなたも、解放されますか」
玄夜の声が止まった。しばらく、谷に沈黙が落ちる。それから玄夜は、ふと苦笑した。
「私は、いいのです」
低い声だった。
「私のことは、誰も覚えていなくていい」
その一言で、あかりにはわかった。さっき自分が読んだものが、正しかったと。玄夜は自分の罪を自分の魂で贖うつもりなのだ。朝霧の解放のために、玖夜の救済のために、自分も消える覚悟でここに立っている。だから、優しかったのだ。自分を消すための優しさで、あかりを慰めていた。
「だめ」
あかりは、痺れた唇で言った。
「誰かが、覚えていないと。あなたのことも」
止めなければならない。そう思うのに体が動かない。それでも、言葉だけは、まだ動いた。
その時だった。谷の上空で、空気がぴんと張る。銀色の閃光が谷の上から降ってきた。
「やめろ!」
声が谷を貫いた。その声を聞いた瞬間、あかりの胸が熱くなる。思い出せなくなっていた玖夜の顔も、声も、腕の冷たさも、一気に胸のなかへ戻ってきた。銀の髪も、白い袖も、雨の匂いも、腕のなかの冷たさも。あかり、と自分を呼ぶあの人の声が。雨上がりの月の下、御膳谷の上、苔むした崖から、白い影が飛ぶ。銀の髪が空中でなびく。千二百年、お山に留められていた者が、その夜、最後の力で御膳谷の結界を破った。
玄夜の祝詞が、初めて止まる。
「兄上!」
玄夜の声が、跳ねた。
「なぜ、来られたのですか」
玖夜は、祭壇の前にゆっくり降り立った。白い袖が月の光のなかで、いつもより薄く透けている。神性は、もう半分も残っていない。それでも、その立ち姿だけは、千二百年を生きた者の威厳を失わない。
「玄夜」
玖夜は低く呼んだ。
「朝霧は、誰の身代わりも望んでいない」
その一言で、谷の空気が凍った。玄夜の目から、すべての表情が消える。
「……兄上は、何を、ご存じなのですか」
「お前は、知らなかった」
「何を」
「朝霧が、自ら魂を引き裂いた本当の理由だ」
玄夜が後ずさった。谷の奥で、何かが低く鳴く。
「兄上」
玄夜の声は子供のように震えていた。
「私はただ、朝霧を解放したい」
「それは、お前のためだ。朝霧のためではない」
「……」
「お前の罪悪感は、お前のものだ。朝霧の魂は、もう千二百年前に自由になっている」
その言葉に、玄夜の手が、祝詞の途中で止まっていた。さっき、あかりが届きかけたところへ、今度は玖夜が、まっすぐ届いた。けれど、術はもう最高潮で止まっている。完全には止められない。解放されようとしていた朝霧の魂が、宙にぼんやり浮いていた。行き場を失い、その余波があかりの体へ流れ込んでいく。
「あかり!」
玖夜の声が谷に響いた。
あかりは祭壇の上で、ようやく玖夜のほうへ顔を向ける。銀の髪も、白い袖も、千二百年を生きた銀の瞳も、そこにあった。その顔を、もう一度見ることができた。それだけで胸が満ちた。もう何もいらない、と思ってしまうほどに。
玖夜が祭壇へ向かって走る。玄夜の止まった術が、あかりへ向かう。
「来ないで……!」
あかりは声にならない声で言った。守らせたくなかった。これ以上、この人を削りたくなかった。けれど玖夜は止まらない。あの雨の鳥居の下と同じように、あかりだけを見ている。玖夜は最後の力で、祭壇へ飛び込んだ。両腕を広げる。あかりと、術のあいだに、白い袖が、月の光のなかでふっと広がった。
その瞬間、玖夜の銀の瞳があかりを見た。苦しげで、優しくて、どうしようもなく愛おしそうで。
「忘れなくて、いい」
玖夜の唇が、そう動いた気がした。雨上がりの谷に、ひとつ光が走っていった。
御膳谷の入り口に、お吉と雅彦がちょうど走り込んできたところだった。谷の奥で光がひとつ強く瞬く。
「あかんっ!」
お吉が叫んだ。雅彦の足が、参道の上で急に止まる。
「……間に合いません」
その声が、低く落ちた。谷の奥で光がゆっくり消えていく。雨上がりの月が、その瞬間、雲の奥へ隠れていった。
残り、三十五日。第18話・了
桜木愛子(Aiko Sakuragi)
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