切手の縁
夢の中だとわかっていた。
それでも指先が動くのを、確かめながら動かした。
タンスの引き出しに、あの葉書があった。
無身
右手の話からはじめる。
三月前、医者が拙僧の右手をひらいて、中の何かを縫い直した。戻ってきた手は、よく出来た作り物のようであった。湯呑みを持たせれば持つ。箸も、まあ持つ。けれども熱いも冷たいもない。指の腹で畳の目を撫でても、撫でたという報せがどこかで止まって、拙僧の元へは届かぬ。
「無眼耳鼻舌身意」と経はいう。眼も耳も鼻も舌も身も意もない、と。若い頃は意味もわからぬまま唱えていた。いまは右手だけがその一句を真に受けて、勝手に仏になってしまったらしい。南無。仏なら本堂に据えればよかろうに、よりにもよって拙僧の右の袖に居座って、飯のたびに難儀をかける。
笑ってくれてよい。拙僧は去年、本物の仏を質に入れた。金が要った。厨子の阿弥陀を布にくるんで質屋まで運んだのも、この右手であった。まだ熱を覚えていた頃の右手だ。番頭が値をつけ、拙僧は銭を受け取り、頭を下げて帰った。仏は欄外へ押しやられ、銭が本文になった。——その罰でこの手が冷えたとは、拙僧は思わぬ。罰にしては道具立てが上等すぎる。
欄外
書物には本文があり、欄外がある。
学者は本文を読む。拙僧のような怠け者の坊主は、いつも余白の落書きや、前の持ち主のつけた爪の跡ばかり見ている。「不垢不浄」と経はいうが、垢も浄も、たいてい欄外のほうに零れている。聖は本文に刷られ、俗は余白に滲む。——と、長いこと思っていた。
あの人は、よく葉書をくれた。
文面のことは、もう、うまく思い出せぬ。何が書いてあったか。たしか時候のことと、些細な用と、しまいに名が一つ。声も、うつむいたときの肩の線も、薄れている。本文は褪せた。人の覚えというのは薄情なもので、いちばん大事に仕舞ったはずの箇所から先に褪せていく。手を合わせて拝むほど大事にしたものほど、白く飛ぶ。
目打ち
夢の中で、拙僧の右手は動いた。
引き出しを開け、葉書の束から一枚を抜いた。表を返す。指の腹が、切手にふれた。
そこだけが、克明であった。
切手の縁の、あの小さな歯。目打ちというのか、ぎざぎざと食み出した紙の凹凸。ひとつ、ふたつ、と指の腹が数えていく。あの人が舌の先で湿らせ、親指で押さえて貼った、その縁。きっちりとは貼れておらず、左の角がわずかに浮いている。そこへ爪を差し入れれば、はがれる。——はがしてはならぬ、と夢の中の拙僧は思う。
聖は本文に書かれるものと、拙僧は教わってきた。誰も切手の縁のことなど書き残さぬ。書き留める値打ちもない、四角い紙の、そのまた際だ。銭にしてわずか。
指は、数えるのをやめなかった。ひとつ、ふたつ。
朝
目が覚めた。
障子が白い。朝が来ていた。来てほしくなくとも、朝は来る。律儀なものだ。
右手は、布団の上に投げ出されていた。さっきまで切手の縁を数えていた指である。拙僧はもう一度、あれをやってみようとした。引き出しを開け、葉書を抜き、縁にふれる——その手順を、頭がさきに歩く。指へ命じる。
人差し指が、ほんの。
——いや。動いたと思ったのは、隣の指が掛布団の縁を滑っただけだ。右手は、また動かなかった。
拙僧は左手で引き出しを開けた。葉書はそこにある。抜いて、表を返した。切手は、左の角がわずかに浮いている。夢のとおりだ。左の指でなら、目打ちの歯も、湿った跡も、なぞれる。なぞれてしまう。けれど、覚えていたのは左ではない。冷えて動かぬ、右の指のほうだ。
葉書を戻そうとして、手が止まった。
切手の左の角が、やはり少し浮いている。
はがれそうで、はがれない。
拙僧はそれを、引き出しの闇へは、まだ戻さずにいる。
