メガネ 【Keikoの小さな話 #009】
1975年、夫の音楽留学に伴い、私たちはドイツで二年半暮らしました。
その間にベルリンで長女が生まれ、1978年に日本へ帰国しました。
それから15年後の1993年。
その数年前にベルリンの壁が崩壊し、街は大きく姿を変えようとしていました。
現地の友人から、私たちが暮らした家も取り壊されると聞き、長女に生まれた家を見せようと、思い切って私と娘の二人でヨーロッパを訪れることにしたのです。
ベルリンを堪能した後、私たち母娘は、せっかくの機会ですので、フランス・パリへ向かったのでした。
空港からタクシーに乗って、くねくねと細い道を走り、やっとパリの小さなホテルに着きました。
本当に小さなホテルでしたが、疲れ果てていた私たちを優しく温かくもてなしてくださったことは、今でもよく覚えています。
数日間パリに滞在し、次の日にはロンドンへ出発するという週末の朝、私たちは最後の観光に出かける準備をしていました。
洋服を着替えて、やれやれとベッドに腰下ろしたその時。
あっ!と思ったら時すでに遅し。
私のお尻の下にあったのは、メガネでした。
奮発して買って大切にしていた…はずの、ジョン ・レノン風の金縁のメガネ。
金製だったので折れる事はなかったのですが、グニャリと曲がって、ペタンコのスルメのような無惨な姿でした。
さぁ大変です。
旅行はまだ終わっていません。
しかし両眼の視力が0.1もない私の視力では、メガネなしではどうしようもありません。
私はふと、ホテルのすぐ近くに、小さなメガネ店があったことを思い出しました。
早速メガネを持ち込みました。
お医者のような白衣を着た店主は、「リスクはあるけれど、やってみましょう」と言って、預かってくださいました。
そんなわけで、夕方の閉店時間までに帰る約束をして、私たちはパリの中心街に行きました。
メガネなしの、ぼんやりしたパリの最終日となりましたが、それでもオペラ座の内装の美しさは、素晴らしいものでした。
さて、店主と約束した閉店時間に間に合うよう、観光は少し早めに切り上げたのですが、帰りの地下鉄がなかなか来ません。
どうも何か事故があったようです。
待てども待てども地下鉄が来ず、メガネ屋さんの閉店時間もとっくに過ぎていました。
携帯もない時代ですので、お互い連絡の取りようもありません。
翌日は休日で、しかも私たちはロンドンに発たねばなりません。
私のメガネは預けたままです。
困った、困ったと思いながら、ようやく動き出した地下鉄に乗ってホテルに帰りました。
ホテルでフロントに鍵を取りに行きましたら、スタッフさんが、預かり物ですと、小さな紙袋を渡してくれました。
開けてみると、すっかり元通りになった私のメガネではありませんか!
ここのホテルに滞在しているとは伝えておりましたので、閉店までに戻らなかった私にと、フロントに託けてくださったのでした。
心の底からホッとしたのも束の間、我々の出発日である翌日は休日です。
メガネ屋さんはお休みです。
丁寧なお仕事をしてくださったのに、お支払いもできないし、お礼も言えない。
どうしたら??
散々考えて、「これしかない」と決めました。
次の日の早朝、私たちはメガネ店さんに行きました。
お店のショッピングウィンドーは施錠されていて、その一回り外側には、格子のシャッターが降ろされています。
格子越しに中を見ると、扉の前に新聞やら封書やら手紙やらが散らばっていました。
私は、お金と日本の住所を書いた短い手紙を入れた封筒を取り出し、格子の間からできるだけ扉の前に行くように、投げ込んだのです。
優しい店主さんが、無事にこの封筒を見つけてくれますように!と祈りながら。
出発の際、その封筒があるのをもう一度確かめて、我々はロンドンに向かったのでした。
ロンドンに着く頃には、パリでのアクシデントのことなどすっかり忘れて、再び旅の続きを楽しみました。
さて、大旅行を終えて、ようやく日本に戻った私たちを待っていたのは、フランスからの手紙でした。
あのメガネ屋さんからだったのです。
Thanks for your honesty.
Most of people wouldn’t have done what you did.
I am very touched to know I have friends in Japan.
Unhappily I don’t envisage to go in your fantastic country…
I hope your travel in Europe will continue without any problems.
(正直でいてくださって、ありがとうございます。
あなたのようなことをしてくださる方は、ほとんどいません。
日本に友人ができたことを、とても嬉しく思っています。
残念ながら、今はまだ、あなたの素晴らしい国を訪れる予定はありませんが……
どうかヨーロッパでの旅が、この先も素敵なものになりますように。)
フランス人は英語を話してくれない。
フランス人はスノッブだ。
とんでもない。
パリのメガネ屋さんのお陰で、私たち母娘のヨーロッパ旅行は、携帯電話もインターネットもなかった時代だからこその、忘れられない旅となりました。


