見出し画像

僕は本物の音を聴きに行く

どこからともなく、ふわりとした、まるみのある音が降ってきた。

見上げると、住宅街にある普通の一軒家の、二階の窓が少しだけ開いている。そこから、誰かが練習しているのか、とろけるような優しい音が、夕暮れの空気に溶け出していた。

「……綺麗な音だね。なんていう楽器なんだろう」

僕がぽつりとこぼすと、隣を歩いていた妻のトラ子さんが、歩みを緩めずにさらりと言い当てた。

「クラリネットだね。きれいな音だね」

「へえ、これがクラリネットなのか。本当に、綺麗な音だねえ」

僕は少しだけ立ち止まって、その目に見えない音の粒を拾い集めるように耳をすませた。

名前だけは知っていたが、それがこんなにも柔らかく、空気を撫でるような音を出すとは知らなかった。

宙をふらふらと漂っていた、あの輪郭のない音色がクラリネットだと名前を知ると、不思議なもので、音色そのものまで少し手触りがはっきりしたように聞こえてくる。

恥ずかしい話だが、僕はどの楽器がどんな音を出すのかということがわからない。

テレビやラジオから流れてくる音楽はもちろん聴くし、オーケストラの演奏だってBGMとして耳にすることはある。でも、「いま鳴っているこの音は、どの楽器が発しているのか」と問われると、まるでお手上げなのだ。

僕は、楽器の生音を知らない。
音楽に強烈な憧れを抱きながら、気がつけば半世紀以上、見事なまでに本物の楽器の音を聴くことなく生きてきてしまったのだ。


中学生の頃、本当は吹奏楽部に入りたかった。
放課後の校舎から響いてくる、あのきらきらとした真鍮の輝きのような音色に、密かな憧れを抱いていたのだ。

でも、当時の吹奏楽部には厳しい人数制限があったし、何より「すごくお金がかかるらしい」という噂に怯えてしまったのだ。「僕みたいな人間が手を出していい領域じゃない」と、勝手に線を引き、結局は運動部を選んだ。

夕方のグラウンドで汗水垂らして走り込みをしているとき、校舎の窓からかすかに聞こえてくる吹奏楽部の練習の音。それは、僕の背中を遠くから撫でるだけの「遠い音」だった。

高校に進学すると、そもそも学校に吹奏楽部が存在しなかった。
その代わりと言っては何だが、空前のバンドブームが巻き起こっていた。僕も例に漏れず、見よう見まねでバンドの真似事のようなものをかじった。

狭くて薄暗い貸しスタジオ。タバコと汗の匂いが染み付いた防音壁。そこで鳴らされる音は、たしかに刺激的で楽しかった。

巨大なアンプのスイッチを入れると「ブゥゥゥン」という低いノイズが鳴る。ディストーションペダルを踏み込めば、そこから飛び出す轟音は、僕らを一瞬だけ無敵のロックスターにしてくれた。

ジャカジャーンと派手な音を掻き鳴らす快感はあったし、それが音楽のひとつの形であることは間違いない。でも、木や金属そのものが震え、人間の息や手の力で直接空気を揺らす「アコースティックな生音」とは、決定的に何かが違うと感じていた。

大人になってから、夢だった電子ピアノを弾くようになった。
指先を鍵盤に落とすと、メロディが生まれる。和音が重なる。自分の手から音楽が紡ぎ出される感覚は、とても感動的だった。音楽って、こんなに豊かなものだったのか。

音楽っていいな、自分で音を出すってこんなに楽しいんだなと、新鮮な喜びに浸っていた。

ところがある日、家に遊びに来た知人がその電子ピアノを少し弾いてこう言った。

「これ、全然ピアノの音じゃないね」

その言葉は、まるで小さな魚の骨のように、僕の胸の奥にチクリと刺さった。

「全然、違うのか」
地味に痛かった。ショックだった。自分が大切にしているものを、しかも自分では「本物だ」と思い込んでいたものを、あっさりと否定されたような気がした。

いやもちろん、その人は別に悪気があったわけじゃない。ただ、本当に素直な感想を口にしただけだ。生ピアノを弾き慣れた人間の耳には、まったくの別物に聞こえたのだろう。

でも、その何気ない一言が、「僕は、本物の音を知らないまま大人になってしまったのだ」という残酷な事実を突きつけた。

生音と電気の音では、やはりそんなに違うものなのだろうか。僕は本物のピアノの音すら、まともに聴いたことがない。トランペットも、フルートも、バイオリンも。画面越しやスピーカー越しには聴いているけれど、目の前で「空気が震える音」を体験したことがない。

もちろん、電気には電気の魅力があるし、デジタルにはデジタルの良さがある。それは分かっている。けれど、「本物の音を知らない」という欠落感は、静かに、しかし確実に僕の中で膨らんでいった。

その小さな骨を抜こうとする無意識の渇望だったのだろうか。最近の僕は、夜な夜なYouTubeを開いては、クラシック音楽や楽器の演奏動画を数時間もぶっ続けで聴くようになった。

いろんな楽器の名前を検索窓に打ち込んでは、動画を再生する日々。

サックスにだって、アルトだのテナーだのソプラノだの、いろいろな種類があることをはじめて知った。触れてこなかった人間にとって、知識なんてそんなものだ。

いろいろ聴き比べるうちに、自分の好みがわかってきた。
ファゴット、オーボエ、クラリネット。僕はどうやら、その系統の木管楽器の音に強く惹かれるらしい。

なぜだろうと考えてみると、「人間の息づかいが直接音になったような、温かみのある音」が好きなんだと気づいた。そう思うと、今さらながら自分の偏愛の正体が見えてきた気がする。それらの音色は、今の僕にとって最高の癒しになっている。

でも。
どれだけ高画質で高音質な動画を観ても、いくら高性能なイヤホンで聴いても、満たされないものがあった。むしろ、聴けば聴くほど、「本物」への渇望がじわりと膨らんでいく。

本物の音楽って、たぶん「音」そのものじゃないのだ。
演奏者のわずかな息継ぎ、楽器の材質が震える微細な振動、ホールという空間を満たす空気の密度、そして、音が鳴り止んだあとの、あの張り詰めた沈黙。その空間の空気すべてをひっくるめたものが、音楽なんじゃないか。

画面越しでは、その一番大事な「空気」が濾過されてしまっているように感じる。

だから、聴いてみたいと思った。本物を。

「本物の音」への飢餓感と向き合っていると、ふと、僕が青春時代を過ごした川崎という街の歴史が重なって見えてくるような気がした。今は「音楽のまち・かわさき」として、認知されている街。

でも、昔の川崎は、お世辞にも「美しい音が似合う街」ではなかった。僕が中学や高校の頃の川崎は、どこか殺伐としていて、危うい空気が漂っていた。

駅前の陸橋や地下通路には、木製の手すりが薄汚れ、昼間から行き場をなくした人たちが段ボールを敷いて寝転がっていた。

聞こえてくるのは、工業地帯から響く重低音や金属音、トラックのクラクション、バイクの爆音、そしてバスの排気ガスの匂い混じりの雑音。くすんだ灰色の、ガサガサした質感の街。
あの頃の川崎は、ノイズと混沌の街だった。

それがどうだろう。
アゼリアという巨大な地下街が誕生し、駅ビルが近代的にリニューアルされてからというもの、この街はまるで脱皮するかのように、猛烈なスピードでその姿を変えていった。いつの間にか「音楽のまち・かわさき」という看板があちこちに掲げられるようになった。

気がつけば、薄暗かった地下通路はピカピカの大理石調に変わり、今では、駅前で毎日のように誰かがストリートライブを行っている。アコースティックギターを弾き語る若者、サックスを吹き鳴らす女性。行き交う人々は、その音色に足を止め、拍手を送る。

街は、音を手に入れたのだ。
くすんだ灰色の雑音から、美しい響きを求めて、川崎は見事に生まれ変わった。あのガサガサしていた街が、まるで見えない巨大な楽器のように、澄んだ音を奏で始めている。

それはまるで、長年「本当の音」を知らなかった僕自身が、今になって音楽を渇望し始めている姿と、奇妙なほどにシンクロしているように思えた。

そして、その「音楽の街」の象徴として堂々とそびえ立つのが、『ミューザ川崎シンフォニーホール』である。世界でも屈指の音響を誇ると言われる、素晴らしいホール。

……なのだけれど。
正直に告白すると、僕にとってミューザ川崎は、長らく「アクセスが良い便利な駐車場」でしかなかった。

ラゾーナ川崎はいつ行っても車が列を作って混んでいるし、ヨドバシカメラの駐車場はスロープが狭くて気を使う。そんな折、ミューザの駐車場は適度に空いていて、停めやすくて、どこに行くにもちょうどよかったのだ。

音楽の殿堂の地下に車を滑り込ませ、上階から響いてくるであろう極上の音の波には一切耳を貸さず、そのまま素通りして隣の商業施設へ買い物に行く。

なんて罰当たりで、貧しい消費の仕方をしてきたのだろう。価値を知らないまま使っていた自分を、今なら小一時間問い詰めたい。

しかし、ミューザを「ただの駐車場」として敬遠し、ホールに足を踏み入れなかったのには、僕なりの言い訳もある。「本物のクラシックコンサートなんて、高いに決まっている」という、強固な思い込みがあったからだ。

海外のオーケストラが来るようなホールなのだ。チケット代は平気で数万円は下らないのだろう。

きっと、ドレスコードなんてものもあって、僕みたいな人間がおいそれと足を踏み入れてはいけない、選ばれたセレブたちの世界。客席に座っているのは、一部の限られたお金持ちや、幼い頃からバイオリンを習っているような教養のある遠い世界の住人たちだけ。

僕のように、クラリネットの音も聞き分けられない、吹奏楽部の練習を遠くから眺めていただけの中年男が、のこのこと足を踏み入れていい場所ではない。
そう勝手に決めつけて、自分の世界から切り離していたのだ。

ところが先日、YouTubeでの木管楽器巡りにも限界を感じていた僕は、ふとした気まぐれで、初めてミューザ川崎の公式サイトを開いてみた。
恐る恐る、公演予定のページをタップする。画面に並んだチケット料金を見て、僕は思わず声を出してしまった。

「えっ……安くない?」

安い。
驚くほど、安いのだ。

数万円が当たり前だと思っていたチケットの中には、信じられないほど手頃な価格の公演がいくつも並んでいるではないか。市民向けのコンサートや、ランチタイムの名曲コンサートなど、千円札数枚で入れるものすらある。映画を見るのと大して変わらない値段だ。

「嘘だろう……? これなら、僕でも聴きに行けるじゃないか」

数万円のチケットが必要な、遠い世界の住人のものだと思い込んでいた「本物」は、僕を拒絶していなかった。僕が勝手に尻込みして、背を向けていただけだった。音楽はずっと、すぐ手の届くところで、ドアを開けて待っていてくれたのだ。

そう気づいた瞬間、胸の奥で燻っていた何かが、パッと明るく弾けた気がした。

行ける。
僕でも、本物を聴きに行けるぞ。

そう思うと、途端にワクワクが止まらなくなってきた。遠足の前日の小学生みたいに、そわそわして落ち着かない。

僕はホンモノを聴きに行くのだ。あの、YouTubeで毎日聴いている木管楽器の柔らかな音を、ホールの空気の震えごと全身で浴びに行くのだ。

しかし。
いざ「行くぞ」と決心した途端、今度は別の不安が波のように押し寄せてきた。

本物の音を楽しむには、一体どうすればいいのだろう? クラシックのコンサートなんて、マナーが厳格に決まっているんじゃないか?

自分の勝手な解釈ではなく、ちゃんとクラシックコンサートのルールを調べて守らねばならぬ。演奏する人の邪魔になったり、他のお客さんの迷惑になるようなことは絶対に避けたい。

演奏中の咳払いはダメだとか、楽章の間で拍手をしてはいけないとか、拍手をするタイミングを間違えたら周りから冷たい視線で射殺されるとか。検索画面をスクロールしては、思わず居住まいを正してしまう。

それから、服だ。
洋服はどうすればいい?フォーマルな服を着るべきか?でも、僕のクローゼットには、仕事用のスーツか、普段着のTシャツとジーンズくらいしかない。ジャケパンスタイルじゃダメだろうか?浮かないだろうか?

まるで初めて高級フレンチの予約を入れた田舎の青年のように、右往左往してしまう。いい歳をしたおじさんが、服の組み合わせで頭を抱えているのである。

文化的な空間、教養の満ちた空間に、僕のような素人が混ざって、悪目立ちしないだろうか。わからないことだらけで、まったく落ち着かない。

滑稽極まりないが、この「本物に触れる前のぎこちなさ」や「文化への不安」すらも、今の僕にとっては愛おしいスパイスだ。本物の音が聞けるという喜びが、不安をはるかに上回っている。

その抑えきれない高揚感は、思わぬ方向へと僕を突き動かした。

気がつくと僕は、週末の朝から、愛車を洗車場に持ち込んで夢中で磨き上げていた。高圧洗浄ガンで汚れを吹き飛ばし、スポンジで丁寧に洗いピカピカにする。

別に、車のままホールの座席に乗り込むわけじゃない。ミューザの地下駐車場に停めるだけなのだから、車が綺麗だろうが汚れていようが、僕が体験する音楽には何の関係もないはずだ。それなのに、僕は見えないホコリを払うように、何度も何度もボディを磨いている。

なんというか、これは儀式なのだ。
「本物」に対峙するための、僕なりの身の清め方というか、心のチューニングなのだと思う。ばかばかしいとは思う。でも、抑えきれないのだ。

いや、もしかすると、かつて駐車場としてしか扱ってこなかったミューザへの、僕なりのささやかなお詫びと敬意なのかもしれない。ミューザの駐車場に停めるなら、少しでもきれいな状態で行きたいという、謎の敬意の表れか。

僕は、洗車を終えてピカピカになった愛車のエンジンをかけた。

キュルル、ブォン!
腹の底に響く、エンジンの低く滑らかな音。

実は、僕は車を選ぶときも「音」を基準にしている。直列6気筒エンジンの奏でる音がたまらなく好きなのだ。それはまるで精密な金管楽器のように、澄んだ、和音のような美しい咆哮を響かせるのだ。これもまた、僕の愛する「本物の音」のひとつである。

ルーフをオープンにして走り出すと、車内には街のノイズが遠慮なく飛び込んでくる。風の音、街のざわめき、遠くで鳴る踏切の音、すれ違う車のタイヤの音。それらすべてが、特別な音楽のように聞こえるから不思議だ。

そんなことを考えながらハンドルを握っていると、助手席のトラ子さんが呆れた顔で言う。

「まだ、チケットすら買っていないのに。」

そうなのだ。公演のスケジュールを眺めながら、「どれにしようか」と迷っている段階なのに、僕の心はすでにホールの座席にある。本物の音を聴く準備は、音を聴く前からすでに始まっているのだ。

あの日、夕暮れの住宅街で聞いた、二階の窓からのクラリネットの音。楽器の名前を知った瞬間に、僕の中で眠っていた憧れが目を覚まして、静かに動き出した。

あれは、僕をミューザの扉の前まで連れて行くための、見えない招待状だったのかもしれない。

僕はようやく、本物の音に向かって歩き出したのだ。

 
  
相生エッセイ


 



このお話で、7月7日にコングラボードをいただきました🎉

▽ note創作大賞2026に応募したエッセイ作品はこちらに収録しています。ぜひ読んでみてください。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました😌

この記事が少しでも心に響いたら、スキやフォローで応援していただけると、とても励みになります!

他にも、創作大賞にも応募している 日々の何気ない瞬間を切り取ったエッセイを綴っています。よかったら覗いてみてください。

ThreadsSubstackで、このエッセイができるまでの裏話とnoteには掲載しきれなかったイメージ画像を投稿しています。

いいなと思ったら応援しよう!

相生エッセイ よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!