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ぬるい風と、あの日の空気

部屋の温度が上がると、人間はろくでもない記憶が動き出す。

いやぁ、今日は暑かった。窓を開けても、ねっとりとした生ぬるい空気が、まるで何かの生き物のように部屋へ這い込んでくるだけで、一向に仕事のパフォーマンスは上がらない。

こりゃ、もうだめだ。
こんな日は、文明の利器、エアコン様のお出ましである。

「エアコン、エアコン……」

弾む気持ちで、リモコンのスイッチを入れる。ピッと小気味良い音が鳴る。白いルーバーがゆっくりと開く。

さあ、こい。僕を救う涼しい風よ。

んん~?
……風が出ない。いや、正確にはぬるい風が少し出た後、沈黙した。

あれ? なんで?
おかしいなと思いながら、リモコンのスイッチを入れ直してみたりするが沈黙したまま。説明書を引っ張り出し、あれこれといじってみたが、どうやら本格的な故障らしい。

むぅ。この暑い時期になって故障か。
本体の下を覗き込んで製造年を確かめると、そこには「2011年製」と印字されていた。15年か。そりゃあ、文句ひとつ言わずに頑張ってくれた方だろう。大往生と言ってもいい。彼を責めることはできない。

しかたない。これからの時期、仕事部屋にエアコンがないのは耐えられない。新しいのを買うしかない。

とはいえ。
どうにも腰が重い。ひたすらに億劫だ。

新しい出費が痛いのはもちろんだが、それ以上に腰を重くさせる理由がある。

今のエアコンは仕事部屋の作業台の真上に設置されている。
設置工事をしてもらうには、当然この作業台をどかさなければならない。それに、見られたくない仕事の資料やら何やら、プライベートに関するものをすべて片付けなければならない。

さらに腰を重くさせているのが、這い回る蛇のようなごちゃごちゃした配線やら、いつか使うかもしれない謎のガジェットたちの整理だ。それらを一時的にでも片付けるのかと思うと、途端に億劫になる。

でも、億劫な理由は、実は片付けの手間なんかじゃない。本当の理由はもっと深いところにある。僕は、「業者」を家に入れるのが極端に嫌なのだ。

というのも、以前この部屋のWiFiを入れ替えたときに、とんでもない目にあったからである。

それまでもWi-Fiは引いていたので、会社を変えてもちょっとした機器を入れ替えればいいのだと思っていた。

ところがどっこい。線も全部引き直しになり、おまけに今まで引いていたルートではダメで、壁に穴を開けないといけないという、予想外の大掛かりな工事になってしまったのだ。

まぁ、それ自体はプロに任せておけばいいので、「そうなんですかー」とお願いしたのだけど、問題は工事当日にやってきたその業者だった。

なぜか、テレビの同軸ケーブル部分も替えないといけないということで、業者の男がテレビの裏を覗き込もうとした時だった。テレビ台の横に飾ってあった妻のトラ子さんが大切にしている人形を、男は無造作に手で払い落としたのだ。

え? と僕は固まった。
人の家の大切なものを、手で払うか?

ありえないでしょう。だからその時は、「きっと狭くて、たまたま手が当たってしまったのに気づかなかったんだろう」と、無理やり自分を納得させることにした。床に転がり「解せぬ」という顔で天井を見上げている人形を、僕はそっと元の位置に戻した。

しかし、僕の中の違和感ランプはすでに点滅を始めていた。

工事が本格的に始まると、壁に穴を開けるための大きなドリル音が響き渡った。

「結構時間がかかるし、音も大きいんで。終わったら声掛けます」

そう言われ、僕はリビングで待機することにした。
でも、なんだかザワザワする。あの男が一人で僕の仕事部屋で作業をする。なんだか嫌な予感がして、僕は部屋を出る前に、こっそり現状の写真を一枚スマホで撮っておいたのだ。虫の知らせ、というやつかもしれない。

しばらくして、どうなったかなと様子を見に行った。すると、信じられない光景が飛び込んできた。

男の持つドリルの刃に、部屋のカーテンがぐるぐると巻き込まれている。それなのに、男はお構いなしにそのまま「ギュイイイイン!」と壁に穴を開け続けているのだ。

おいおいおいおい!
摩擦の熱でカーテンの生地がドロドロに溶けて、うっすらと焦げ臭い煙まで上がっているじゃないか。なんで平気なんだよ。

「ちょっと、カーテン絡んでんじゃん。どうすんの?」
僕が声をかけると、男は「何が?」というような、ぽかんとした顔をした。

そして、男はドリルの刃から、溶けて固まったカーテンを無理やりむしり取ると、そのまま床にポイッと捨てた。

その後ろで、様子を見に来たトラ子さんが、「ええっ……」と、しぼんでいく風船のような悲しそうに小さな声を上げていたが、男はあまり気にするそぶりもなく、ただドリルの先を気にしていた。

注意力が足りないとか、そういう次元の話ではない気がした。だが、もうこうなってしまったものは仕方がない。壁にはすでに穴が開きかけているし、今さら「帰れ」とも言えない。もう、早く終わらせて、一刻も早くこの男に出て行ってほしかった。

工事が終盤に差し掛かった頃、再び様子を見に行くと、男はなぜかひどく慌てた様子だった。

「あ、もうすぐ終わりますんで」
そう言って、逃げるように乱暴に片付けを始め、そそくさと作業を終了させた。

今まで家に入って工事してくれた人に悪い人はいなかった。たまたま雑な人に当たってしまったのか……そう思いたかった。

しかし、最後の最後に、決定的な出来事が起きた。
テレビの裏を最終確認すると言って覗き込んだ男は、またしても、手で人形を払って落とした。そればかりか、今度は床に落ちた人形を、足で邪魔そうに払ったのである。

プツン。
僕の中で何かが切れる音がした。
一回目は事故かもしれない。でも、これは明らかに「わざと」だ。

「あのさぁ。さっきも思ったけど、それ、あり得ねえから。邪魔なら邪魔って言えばいいんじゃねえのか?」

静かに、でも確実に怒りを込めて言った。
しかし男は、「そっすか」と全く悪びれる様子もなく、気にする素振りさえ見せずに帰っていった。

僕はただ、沸々とする怒りの気持ちを抑えていた。かつて自分も、他人の家に上がる仕事をしていたから、余計に腹が立ったのかもしれない。

エアコンのリモコンのイラスト

男が帰った後、静まり返った部屋で、僕は工事前に撮った写真と現状を見比べた。

違和感の正体を探るように。
引き出しの位置が、微妙にずれている。
雑な男だったから、作業中にぶつかったのだろうか。

いや、違う。引き出しの中身の位置も変わっているのだ。そして、奥にしまってあった封筒が消えていた。中に入っていた数万円のお金とともに。

すぐに会社に連絡する、と息巻く僕を、トラ子さんは必死に止めた。

「やめて! 人形を足で蹴るような人でしょ? カーテン燃やしても平気な人でしょ? そんな人に文句言って、逆恨みされて何かされたら……後が怖いよ」

確かに、人形を平気で足で蹴り、他人の家のカーテンを溶かしても無表情な人間だ。今の時代、理不尽な仕返しをされないとも限らない。

トラ子さんは、自分の人形が蹴られたことよりも、これからの平穏な日常が脅かされることを怖がっていた。

仕方なくその時は我慢したが、僕は数日経ってから会社宛てに、「こういう事実がありました」とだけ連絡を入れた。お金が無くなったという推測は、飲み込むしかなかったのだ。自分の不甲斐なさが情けなかった。

僕は若い頃、配達の仕事をしていたことがある。
その配送業務の中には、いわゆる「嵩物(かさもの)」と呼ばれる家具などの大きなものを部屋まで運ぶ「搬入」の作業もあった。

その時は、壁や床に傷一つつけないよう細心の注意を払い、配達先の家ごとに新しい靴下に履き替えるくらいの気遣いをしていた。それは、他人のプライベートな空間にお邪魔させていただくという、最低限の礼儀であり、僕らの「仕事の誇り」だったのだ。

だからこそ、あの業者の行動が信じられなかったし、同時に、クレームを入れては現場が大変だという、同業者ゆえの甘えもどこかにあったかもしれない。

でも、あの男は、我が家を汚しただけでなく、自分がかつて誇りを持ってやっていた「他人の家に物を届ける」という仕事のイメージが、あの男のせいで汚されてしまったような気がして、それが悲しかったのである。

あれ以来、家に業者を入れるのがトラウマになってしまった。
どうしても必要な時は、この家を建ててもらった昔から付き合いのある地元の工務店にお願いしているけれど、さすがに家電量販店で買うエアコンの設置までは頼めないだろう。

だから、億劫なのだ。
ぬるい風すら出なくなったエアコンを見上げる。

エアコンの壊れた部屋は、時間が経つにつれて、じわじわと熱を帯びてきた。むわっとした空気が、僕の思考を完全に停止させていく。

このままでは、原稿を書くどころか、ただ汗を流すだけの干物になってしまう。過去の嫌な記憶に縛られて、この暑い部屋でじっと耐え続けるのは、どこか間違っている気がする。

僕は立ち上がり、テレビ台の横にいる人形をそっと持ち上げた。

「ごめんね。また知らない人が来るから、しばらく安全な場所に避難しててね」

そう言って、人形を隣の部屋の棚に移動させた。それから、作業台の上の見られたくない資料たちを、バサバサと引き出しに突っ込む。

僕は重い腰を上げ、まずは付き合いのある信頼できる工務店のおじさんに電話をかけてみることにした。

「もしもし、エアコンなんですけど……」

電話の向こうから、「そりゃビックカメラに行った方が安いよー」といつもと変わらない呑気な声が聞こえる。

ですよね。

しかたがない。さっそくビックかヨドバシに行って、エアコンの取り付けをお願いしよう。

ぬるい風の中で、そんなことを考えながら、今日もこの原稿を書いている。

 
 
相生エッセイ

 

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  ぜひ読んでみてください。


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