時間の味がするでしょ
炊きたてのご飯の湯気の向こうに、小さな赤がひとつあった。
梅干しだ。
箸でそっと持ち上げ、白いご飯の上に乗せる。薄い皮がぷつりと破れ、中から果肉が溢れ出す。それを口に運んだ瞬間、脳天を突き抜けるような鮮烈な酸味と、それを追いかけてくる深い塩気、あるいはもっと複雑で、静かな「重み」のようなものが舌の上に広がった。
酸っぱい。たしかに酸っぱいのだが、その奥にうまく名前のつけられない何かがあった。言葉にできないまま、僕はただ、ゆっくりと味わっていた。
わが家の庭には、僕が子供の頃から一本の梅の木があった。
あった、といっても、僕にとっては背景の一部に過ぎなかった。春になっても花が咲く気配はなく、夏になればただ葉を茂らせるだけ。実がなるなんて、夢のまた夢。
「この梅、全然咲かないよね。いっそ物置でも置こうか」
そんな失礼なことを口にしたこともあった気がする。
いつしか僕は、その木を庭の景色というよりは、古びた物置と同じような「背景」として処理するようになっていた。あるのに、ないもの。存在しているのに、機能していないもの。僕にとっての梅は、そんな記号に過ぎなかったのだ。
ところが、人間というのは勝手なものである。
自分の庭に梅があるというのに、僕はわざわざ「梅の名所」と呼ばれる場所へ出かけては、立派に咲き誇る花を眺めて「ああ、春ですなあ」などと感傷に浸っていた。
とくにお気に入りなのが、家の近所にある、江戸時代から続く屋敷を見学できる施設だ。立派な長屋門をくぐり、一歩中に入れば、そこは都会の喧騒から切り離された別世界。蚕小屋があり、竹林が揺れ、四季折々の草花が静かに呼吸している。
僕はそこで、誰からも声をかけられることなく、ただぼんやりと庭を眺めるのが好きだった。静かに古い柱や瓦を眺めていると、自宅にいるよりも自宅にいるような、不思議に落ち着いた気持ちになれるのだ。
ある日、その屋敷の庭にある見事な梅の木を眺めていたとき、僕はいつもより長く立っていた。その木は、幾重にも歳月を重ねた重厚な枝振りに、真っ白な花を誇らしげに咲かせていた。
「綺麗だな」
不意に、そんな月並みな言葉が漏れた。そして、ふと思ったのだ。
この場所がこれほどまでに美しく心地よいのは、誰かが何十年、何百年という歳月をかけて、この木を、この土を、守り続けてきたからではないか。その果てしない「維持」という名の愛情が、この静寂な美しさを作っている。
「誰かが、この木に、長い時間をかけてきたのだなあ」
……待てよ。うちの梅だって、元々は。
家に帰り、改めて庭の隅を覗き込んでみた。
しばらくぶりに見る梅の木の周辺は、僕の知らない風景が広がっていた。
「ただの棒」だと思っていた幹の周辺には、いつの間にか新しい土が盛られ、丁寧に枝が整えられている。あきらかに、誰かの「手」が入っているのだ。
「……トラ子さん、梅の木、何かした?」
一緒に庭に出た妻のトラ子さんに僕が尋ねると、「あ、気づいた? 何年か前から少しずつ手入れしてたんだよ」と答えた。
僕は思わず、自分の額に手を当てた。
彼女は僕が「物置を置こう」などと抜かしていた頃から、密かにこの梅の復活作戦を敢行していたらしい。
園芸の本を買い込み、剪定のタイミングを調べ、コツコツと肥料をやり続けていた。そうやって、ずっと庭の「棒」と向き合っていたのである。
華やかな変化はない。むしろ、地味で根気のいる、誰にも気づかれないような作業の積み重ねだ。でも、トラ子さんはそれを楽しく、当たり前の日常として続けていた。彼女が育てていたのは、単なる植物ではない。「時間」そのものだったのである。
トラ子さんは、僕の隣に並んで、愛おしそうに梅の枝を見上げた。

それから数年。
奇跡は、静かに、けれど確実に訪れた。
「咲いたよ! うちの梅が咲いたよ!」
トラ子さんの歓声に誘われて庭に出ると、あの梅の木の硬く閉ざされていたはずの枝先に、ポツリ、ポツリと、白い明かりを灯したような花が咲いていたのである。
「咲いた……!」
僕は思わず声を上げた。
それは屋敷の梅のような豪華絢爛な姿ではなかったけれど、何年も沈黙を守り続けてきた老木が、絞り出すようにして咲かせたその一輪は、どんな名所の梅よりも美しく、力強く見えた。
そして。花はついに「実」へと姿を変えた。
収穫したわずかな梅の実は、トラ子さんの手によって丁寧に塩に漬けられ、梅雨明けの空の下で太陽の光を浴びた。
僕が「いつになったら雨が上がるかなあ」なんて呑気にテレビを眺めている間も、彼女は空模様を気にしながら、梅の座布団を裏返したり、夜露に当たらないよう取り込んだりしていたのである。
そして今日。
僕はその梅干しを食べている。
自家製の梅干しというのは、不思議なものだ。スーパーで売っている「はちみつ梅」のように、最初から愛想を振りまくような甘さはない。口に入れた瞬間、容赦ない酸味と塩気が襲ってくる。
「……これ、うちの梅?」
向かい側に座る妻のトラ子さんに尋ねると、彼女は我が意を得たりという顔で、ニマニマしながら頷いた。
「そうだよ。 数年がかりの我が家の初収穫! 去年漬けた梅」
正直に告白すれば、僕は自分の家の庭に、まさかこんなにまっとうな梅干しを生み出す力があるなんて、今の今までこれっぽっちも思っていなかったのだ。
この梅干しの味は、トラ子さんの労力の味であり、目に見えない愛情の集積そのものだ。それは、トラ子さんが梅の木と向き合ってきた数年間の時間そのものだった。
「どう? 時間の味がするでしょ」
僕の向かいで、お茶をすすりながらトラ子さんが言う。
「時間の味」——まさに、そのものだった。
思えば、僕たちは、ついつい「結果」だけを欲しがってしまう。
美しい花が見たい、美味しい梅干しが食べたい。でも、その手前にある「手入れ」という気の遠くなるような時間を、僕はつい見落としていたのだ。
外の屋敷に静寂を求めていた僕は、実は一番身近にある「手入れされた愛」の存在に気づいていなかったのである。一番贅沢な静寂は、実は自分の庭で、彼女の手によって育てられていたのだ。
「おいしいね、この梅干し」
僕がそう言うと、トラ子さんは、「でしょ? でも、去年はちょっとしか取れなかったから、大事に食べてよ」と言って笑った。
この一粒が、どれほど多くの「手間」によって支えられてきたのか。
庭を見ると、今年も梅の木が少しずつ実を膨らませ始めている。
今年はどれくらい実るだろうか。
僕は、背景だと思った足元に、幸せがあるのを感じていた。
相生エッセイ
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