小説『Answer / Another』
あの日、名前を呼べなかった。
でも、あなたを想っていた。
声にならなかった言葉。
形にならなかった約束。
そして、最後に残された“もう一つの答え”。
これは、ふたりの未完成の歌をめぐる物語。
そして、それを継いだ“あなた”の物語。
📘プロローグ『夜明けのブースから』
その朝、街はまだ半分眠っていた。
駅へ向かう人の足音がまばらに響き、空は淡い青に滲み始めている。
ラジオ局のスタジオブース。赤いオンエアランプが灯ると、世界が一瞬だけ静まる。
朝比奈灯里(あさひな・あかり)は、マイクの前に座っていた。
カウントのゼロとともに、彼女の声が空気に流れ出す。
おはようございます。灯里です。
ほんの一拍、間を置いてから、彼女は静かに告げた。
今朝は、ある一曲を、お届けしたいと思います。
イントロが始まる。
静かなギター。
揺れる空気。
夜明けの匂い。
そして——
タイトルは、《Answer / Another》。
📖第1章『沈黙の終わり』
その投稿を見たのは、偶然だった。
というより、そんな投稿は毎日いくらでも流れてくる。音楽の考察、都市伝説めいた噂、タイムラインの泡のような感情。
けれど、その夜はなぜか、スクロールする親指が止まった。
ユナの“Deep Breath”って、2番の歌詞、頭から読むと“REN”って出てこない?
灯里は首をかしげたまま、スマホを持ち直した。
この投稿をしたアカウントに見覚えはなかった。アイコンはギターのヘッド、投稿数も少ない。
ただ、添えられていた歌詞の画像だけが、静かに主張していた。
レインに濡れた 夜を越えて
描いた未来が 遠ざかっても
何も言わないで ただ抱きしめて
レ・エ・ン。REN。
そう書かれてみれば、確かにそう読める。
でも、だから何だというのだろう?
灯里は思った。
亡くなってから5年。一之瀬ユナ(いちのせ・ゆな)にまつわる憶測は山ほどあった。
あの死は本当に事故だったのか?
そもそも、神楽坂レン(かぐらざか・れん)との同日死亡は偶然だったのか?
けれどそれらは、いずれも“語られるには遅すぎる話”だった。
当時の報道は熱狂して、すぐに沈静化した。事件性はない、偶然だと――警察もそう結論づけていた。
ただ、灯里の中で何かが残った。
それは言葉にできるものではなかった。
心の奥に、うっすらと水を吸った紙のように広がっていく感覚。
なぜ、今、この投稿が、こんなにも気になるのか。
灯里はイヤホンを取り出し、スマホで“Deep Breath”を再生した。
イントロが始まる。静かなピアノ。少し高めの、でもまっすぐな声。
その声を耳にした瞬間、彼女の背筋に、何かが走った。
それは懐かしさではない。むしろ、ずっと聴いてこなかったはずの“音”が、いま初めて心の奥に触れた気がした。
「……なんで?」
小さくつぶやいた声が、部屋に吸い込まれていった。
再生が終わる前に、灯里はもう一度タイムラインに戻っていた。
投稿にはすでに何十件ものリプライがついていた。
え、マジじゃん。
さすがにこじつけでは?
でも、もし本当なら…ヤバすぎる。
スクロールしていくと、ひとつだけ目を引く返信があった。
ユナの歌詞の“レ・エ・ン”は、マジで意図的だと思う。
というのも、Silent Prayerにも仕掛けがある。Y・U・N・Aって縦に並ぶ。
見てみ。あれ、絶対そうだから。
灯里は、返信のアカウントをタップした。
ユーザー名は「@sosuke_inoue」。プロフィール欄には、こうあった。
🎸 amateur songwriter / 都内某大 🎶
すれ違った想いの続きを探してる人へ
“すれ違った想いの続きを探してる”――その一文が、妙に引っかかった。
灯里は自分でも意識しないまま、「Silent Prayer」の歌詞を検索していた。
いくつかのファンサイト、まとめブログがヒットする。そこに掲載された2番の歌詞を見て、灯里は息を飲んだ。
ゆるされない約束が
うつくしいままで閉じ込められて
なにもできずに 立ち尽くしていた
あの日の僕に さよならを告げた
ゆ・う・な・あ。
自然すぎる。けれど、不自然すぎる。
それは、誰にも気づかれないように仕込まれた“名前”だった。
「これ……返事、だったの?」
5年前。
レンの死後に発表されたこの曲は、追悼とも、懺悔とも、ただの失恋曲とも言われた。
でも今ならわかる気がした。この歌は誰かひとりに向けられた“祈り”だった。
そして、答えるべき“問い”が、どこかにあったのだ。
灯里は、スマホの画面を開いたまま、しばらく黙っていた。
夜の部屋は静かで、壁の時計だけが針を進めていた。
静かに、息を吸う。呼吸を整える。
自分の中のどこかが、ふっと切り替わるのを感じた。
それは深い夜に灯る、小さな決意のようだった。
やがて、決意したようにスマホのキーボードをタップし始める。
DM。宛先は、あの考察を投稿したアカウント――「井上奏介(いのうえ・そうすけ)」。
はじめまして。
投稿、読ませていただきました。
よかったら、少しお話しできませんか?
送信。
画面を閉じたあとも、灯里の胸の奥では、あの曲のピアノがまだ鳴っていた。
📖第2章『祈りの構造』
DMの返事は、意外なほど早く届いた。
送信して数分後、既読マークがつき、ややあって短い返信が来た。
こんばんは。
正直、誰かから反応が来るとは思ってませんでした。
よろしければ、直接お話ししましょうか。都内ですか?
灯里は少し戸惑いながら、画面を見つめた。
慎重なやりとりを期待していた自分と、即座に進展してほしかった自分とが、心の中でぶつかり合う。
だが結局、彼女はこう返した。
都内です。
よかったら、カフェで。
明日、午後3時なら空いてます。
翌日、渋谷の人混みの中、灯里は一つのカフェの奥の席にいた。
黒縁のメガネと、無地のTシャツにジャケットを羽織った青年が入ってきたとき、彼女はすぐにわかった。
彼が近づいてくる。小さく会釈する。
「朝比奈さん、ですよね」
「はい。井上奏介さん……で、合ってますか?」
「ええ。井上で大丈夫です」
二人は互いにぎこちなく笑い、注文を済ませたあと、沈黙がひとつ流れた。
最初に言葉を発したのは、灯里だった。
「その…あの投稿、すごく気になって。
“REN”や“YUNA”の縦読みとか、最初に気づいたの、奏介さんですよね?」
井上は軽くうなずく。
「ええ。というか……実は僕、アンサーソングを作ってたんですよ、恋人と。
って言っても素人の遊びみたいなものですけどね。
互いに“気づかれるか気づかれないか”の仕掛けを入れたりして。
で、その参考にいろんな既存曲の歌詞を読み漁ってて……見つけたんです」
「《Deep Breath》と《Silent Prayer》の構造?」
「はい。最初は偶然だと思った。でも――仕込んでます、あれは。絶対に」
井上はスマホを取り出し、画面を見せた。
そこには、音楽理論を応用した歌詞構造の図解、コード進行の比較、モチーフの繰り返し……彼が記録してきた、明らかに“本気の考察”があった。
「これ、音楽だけじゃなくて“語りの構造”にもなってるんです。
《Silent Prayer》は、明らかに《Deep Breath》への“返答”として構築されている。
たとえば――この行。
《深く息を吸って》と《静寂に溶けた願い》は、構造的に対応してる」
灯里は、画面を見つめながら言った。
「……音楽が、会話になってる」
「そうです。会話です。だけど――声じゃない。
名前を呼び合ってるのに、実際には、一言も“名前”を出していない」
そこにあったのは、“言葉にできなかった言葉”の応酬。
それが、5年間誰にも気づかれずに眠っていたことに、灯里は戦慄すら覚えた。
会話の終盤、灯里はそっと息を整えた。
この胸の中のざわめきを、見透かされないようにするために。
静かな深呼吸。
心のどこかが、ほんの少しだけ整った。
帰り際、井上がふと呟いた。
「たぶん、まだあると思うんです。
……もうひとつ、ふたりだけの曲が」
井上との別れ際、「まだあると思う」と言われた言葉が、帰り道でもずっと灯里の中に残っていた。
その夜、いつものようにスマホを開くと、タイムラインの空気が少しだけ変わっていた。
あのユナの曲、縦読みで“REN”はマジだわ
Silent Prayerも縦読み“YUNA”って、もう運命じゃん……
アンサーソング説、地味に信じたい
これ、もし本当だったら、やばくない?
数時間前まではひとつの投稿だったスレッドが、引用とスクショで枝分かれし、拡がり始めていた。
タグも生まれていた――#DeepBreathの真相、#SilentPrayer解析班。
まだ、炎上というほどではない。
でも、確実に誰かが誰かを呼びかけている空気が、画面の奥に漂っていた。
灯里は息をひそめるように、投稿をひとつひとつ遡っていった。
そしてふと思った。
私は、何を探してるんだろう?
📖第3章『消えた共作曲』
「……鍵盤の音、なんか、違うんですよね」
井上奏介は、自分のスマホを操作しながらそう言った。
ファイル名は「SP_DEMO_FINAL」。数年前にアップされた、「Silent Prayer」の公式デモ音源だった。
カフェのテーブルに流れたのは、静かなピアノ。ヴォーカルのない、レンの鍵盤だけが残されたバージョン。
灯里はそれを聴きながら、自然と背筋を正していた。音が空気を整えていく。
そして、思わず息を吸い込んだ。深く、静かに。鼓動が、少しだけ落ち着く。
——Deep breath。
「このイントロ、テンポが一度落ちて、また戻るでしょう?
リズム的には不自然なんです。
本来ならここ、歌が入る“間”なんですよ。……でも、歌詞が存在しない」
「つまり……消された?」
「それか、最初から入ってなかった。いや、“まだ入れてなかった”のかもしれない」
二人は再び図書館のような静かな空間――井上が通う大学の音楽棟の練習室にいた。
グランドピアノの前、灯里はプリントアウトされた《Silent Prayer》の譜面を見つめていた。
「このコード進行……《Deep Breath》とは違う。でも、似た構造を持ってる。
展開の持たせ方、対旋律の置き方……まるで、返事を待つように作られてるんです」
井上の声は確信に満ちていた。
「でね、もっと驚いたのは――これ」
彼は、USBメモリを机に置いた。白無地のラベル。何も書かれていない。
「Silent Prayer」考察を投稿する前、井上はネット上の中古音楽機材サイトを漁っていたという。
「神楽坂レンが使ってたって噂のMIDIキーボードが、たまたま出品されてた。
信じてなかったけど、価格が妙に高かったのと、出品者が音楽関係者っぽかったから……買いました。そしたら――中に入ってた」
灯里はUSBを受け取り、手のひらで温度を確かめるように握りしめた。
その日の夜。
USBメモリを開いた灯里は、1つのフォルダを見つけた。
“AA_DRAFT”という名前だった。
開くと、そこには数本のオーディオファイルと、手書きのスキャンデータが入っていた。
スキャン画像には、乱れた筆致でこう書かれていた。
もうひとつの可能性。
君と、僕と、あの歌が重なる場所に――答えがある。
灯里はファイルを再生した。
そこにあったのは――
ピアノの音。ユナの歌声。そして、レンの声が重なる旋律。
けれど、曲は途中で途切れていた。
その瞬間、灯里は小さく、祈るように目を閉じた。
——Silent prayer。
この音が、ふたりにとって最後のメッセージだったとしたら。誰にも知られないまま消えていったとしたら。
数日前まで、タイムラインには確かに熱があった。「#SilentPrayer解析班」はトレンドの隅に顔を出し、音楽系YouTuberが動画を出し始め、まとめブログが取り上げていた。
「ユナとレン、まさかのアンサーソング説」「縦読みはただの偶然?」「匂わせ? それとも……陰謀?」
だけど、そんな熱は長くは続かなかった。数日もすれば、タイムラインにはまた別のニュース、別の炎上、別の恋愛暴露が並んでいた。ユナとレンの名前は、ゆっくりと、誰の記憶からも沈んでいった。
「なんか前もそんな話なかったっけ」「どうせまたファンの妄想でしょ」「ガチならとっくにテレビでやってる」
灯里はそれを見ながら、冷たい水に指先を浸すような気分になった。
熱を持たない真実は、誰にも拾われない。むしろ、確信がないという理由で、なかったことにされてしまう。
でも、自分の中にだけは残っている。あの音。あの歌詞。あの名前たち。
「なら、私が探すしかないじゃない……」
独り言のようにつぶやいた声は、再び沈黙に吸い込まれた。
📖第4章『最後のメッセージ』
USBに残されたファイル――"AA_DRAFT"。それが世間に公開されることはなかった。あの夜、ふたりが何を伝えようとしていたのか。灯里の中では、音楽はもう“証拠”ではなく、“遺言”のように響いていた。
けれど、その感傷を打ち砕くかのように、世間はあまりに冷たく、速かった。
拡散されかけていたアンサーソング説も、数日を待たずに沈静化した。「証拠がない」「思い込みだろう」と、ネットの海は静かにふたりの死を“風化”させていった。
灯里は、自分の部屋の壁に貼った歌詞カードを見つめながら、焦りとも哀しみともつかない感情を噛み殺していた。何か、もっと確かなものがほしかった。
そして、静かにひとつ、深呼吸をした。
どこかで、すべてが繋がる瞬間を信じていた。
その矢先に井上から連絡がきた。
「警察資料の件、昔の友達に頼んでみた。今はセキュリティ系ベンチャーにいるんだけど、いわゆる“手が早い”やつ。大学サーバーの教育用データに混じってる未整理ファイルを掘り出してくれるかもしれない」
数日後、ふたりは大学近くのカフェにいた。そこに現れたのは、無地のパーカーを着た中性的な人物だった。
「三浦慧(みうら・さとる)。ミウって呼んで」
スマートフォンを机に置きながら、ミウは続けた。
「旧所轄の警官が大学の教授に資料を寄贈してたみたいでね。直接じゃないけど、教育用コンテンツの保管サーバーに数ファイルだけ混ざってた。普通には見えない構造だったから、解析して拾い上げた。見せるけど、絶対にネットには流さないでよ」
その資料には、冷たい文字列が並んでいた。
《死亡時刻:神楽坂レン、2021年12月16日 午後9時13分。死因:感電による心停止。スタジオ内機材に接触した形跡あり》
《一之瀬ユナ、2021年12月16日 午後10時02分。死因:高所からの転落による頭部外傷。ビル屋上に単独でいた記録》
「……連絡はしてなかったんだ」
灯里が呟くと、奏介は小さく頷いた。
「お互いに会う予定だった形跡はない。少なくとも記録上は。でも、変なんです」
彼は別のページを指差した。
《死亡者所持品:一之瀬ユナの所持端末にて、午前3時まで稼働ログ。端末使用中に撮影されたと見られる音声ファイルは未保存。再生・送信履歴なし》
「つまり……死ぬ予定の人間が、夜中の3時まで曲を確認してた。しかも、再生だけじゃなく“録音”してた可能性がある」
さらに、ミウが一枚のスキャン画像を差し出した。
《配信ファイル準備:AA_RELEASE_2021_12_17.wav(MP3変換用データ)。メタデータ設定済/公開予定時刻:12月17日午前10時》
灯里は息を呑んだ。
「じゃあ……あの曲、本当は翌日、公開される予定だった……?」
「意図的に止められたんです。誰かが、止めた」
さらに、封筒が一通。裏には「天野絢音(あまの・あやね)」の名前。
灯里は震える手で手紙を広げた。手紙の文面は簡潔だった。
あの夜、私は止めようとした。だけど、届かなかった。これは、あなたが託されたものです。あの子の“最後の言葉”を、どうか、あなたの手で。
そのとき、奏介がふと声を上げた。
「これ……GPSログです」
タブレットの画面には、ユナのスマートフォンが死亡直前に立ち寄った“予定にない場所”の座標が記録されていた。
「ビルの裏手。関係者以外立ち入れない駐車スペース……こんな場所に、なんで……?」
少しして、奏介は深く息を吐いた。
けれどその表情には、悲しみではなく、何かを断ち切るような覚悟があった。
「まとめると、こうです。レンの死因は感電で、ユナは転落。記録上、ふたりは直接会っていない。でも、ユナの端末は深夜まで稼働してて、何かを録音していた。しかも翌日の午前10時に《Answer / Another》が配信される予定だった。誰かがそれを止めた。そして今、絢音さん宛ての封筒が出てきて、ユナの足取りも不自然だった」
灯里は目を見開き、ふと笑ってしまった。
「あなた……コナンくんみたいね。あ、ごめん、コナンくんは小学生だから……工藤新一か」
奏介は照れたように肩をすくめた。
「いや、推理っていうより、つじつまが合わなすぎて……」
灯里は、スキャン画像の片隅に書かれていた一行を思い出した。
──"君と、僕と、あの歌が重なる場所に、答えがある"──
この“場所”とは、どこだったのだろう。
そして、その“答え”は、本当にまだ見つかっていないのだろうか。
……いや。
きっと、もう残されている。どこかに。誰かの中に。
灯里は静かに目を閉じた。
心の中で、静かに願うように。
——Silent prayer。
ユナの声が、まだ耳の奥で震えていた。
@_air_io_ 🌿 一之瀬ユナ《Deep Breath》 アイドルとして輝きながら、常に「誰かの心に寄り添う歌」を歌いたいと願い続けた彼女。 ■ 小説《Answer / Another》連動作品 一之瀬ユナという少女の歩んだ人生と、この1曲に込められた想い。 #DeepBreath #一之瀬ユナ
♬ オリジナル楽曲 - 耀羽 絵空 - 耀羽 絵空
🎵第5章『彼女と、彼』
春の空気はまだ少し肌寒くて、けれど街にはどこか軽やかな音が満ちていた。
彼女は中学三年生の修学旅行で原宿に来ていた。人混みに揉まれながらも、友達と一緒におしゃれな雑貨屋をのぞき、ソフトクリームを食べて、どこか浮き足立ったまま、にぎやかな通りを歩いていた。
そのときだった。
ふと足を止めた。角を曲がった先、人だかりができていた。
ギターを持った若い男性が、歩道の隅で弾き語りをしていた。マイクもアンプもなし。ただギターと声だけ。それなのに、人々の足が止まり、誰もが静かにその音に耳を傾けていた。
彼女もつられるように立ち止まった。
その声は、強くはなかった。けれど、まっすぐだった。澄んでいて、けれどどこか切なさをはらんでいた。まるで、自分だけに語りかけてくるような声。
気づけば、ポケットからスマートフォンを取り出し、こっそり録音を始めていた。胸の奥に何かが灯ったような気がして、その音を逃してしまいたくなかった。
彼の最後の一音が空気に溶けるように消える。
「CDは……あ、もう切れちゃってて。ごめん。よかったら、名前だけでも覚えて帰って」
そう言って彼は、軽く頭を下げた。
そのとき彼女は、なぜだか恥ずかしくて、顔を伏せたまま立ち去った。
名前は、聞こえなかった。
でも、その歌声だけは、耳の奥にずっと残っていた。
帰ってから、彼女は何度も録音を再生した。
夜、眠る前に。朝、学校へ向かう支度をしながら。テストで落ち込んだ日も、友達と喧嘩した日も。あの声は、いつも彼女の背中をそっと押してくれた。
寝る前に一度だけ、そっと息を吸ってから再生するのが、彼女の日課になっていた。
深く、静かに——深呼吸。
"私も、あんなふうに誰かの心に寄り添えるような歌を歌いたい"
そう思った。
それが、彼女がアイドルを志すきっかけになった。
そして数年後。
彼女はアイドルとして活動する日々のなかで、幾度も心が折れそうになった。ファンの声援の裏にある見えない期待や、完璧さを求められるプレッシャー。誰にも弱音を吐けない夜、誰にも頼れない朝。
けれど、いつもそばに、あの歌があった。タイトルすら知らなかったその歌が、彼女のすべてだった。
あのとき録音した、少しこもった路上の音源。騒がしい街の雑音の向こうに、彼のまっすぐな歌声が聴こえる。それが、どれだけ彼女の心を救ってきたか、誰にも知られていなかった。
"私は、私自身の、自分だけの灯りを探してここまで来たんだ。"
その確かな想いだけが、彼女を前に進ませていた。
そんなある日——
ステージ袖のモニターに映るのは、まさにあの声の持ち主だった。
音楽番組のリハーサル。自分が出演するわけではない日でも、彼女は現場にいた。アイドルグループのセンターという肩書きは、週の半分をスタジオに縛り付ける。
けれどこの日だけは、心が自由だった。モニター越しに映る彼の指先、閉じたまぶた、マイクの持ち方。何もかもが、確かにあの日の彼だった。
演奏が終わる。拍手。スタッフのやり取り。
彼女は思わず、リハーサルが終わった直後に楽屋前の廊下に立った。
「すみません……原宿で。昔、あなたの歌を聴いたことがあって」
彼女は少しだけ間をおき、続けた。
「私、あのとき録音してたんです。ずっと、ずっと聴いてました。辛いときも、苦しいときも……何度もあの歌に助けられました。……私、いつも“あの時のあなたの歌”、聴いてたんです」
彼は少し驚いたような表情を浮かべた後、微笑んで言った。
「それ、たぶん……僕がタイトルをつけてなかった曲だ」
「え?」
「ずっと悩んでた。何かを探してるような気持ちで作ったから。でも、まだ“これだ”って言える名前がなくて」
「……じゃあ、今ここで、ふたりでつけようよ。私が、ずっと心の中で呼んでた名前があるの」
「うん、教えて」
彼女は小さく頷いて、まっすぐ彼の目を見た。
「《灯を探して》。それが、私にとっての名前だった」
その瞬間、彼の目が少しだけ潤んだ気がした。
「それ、すごくいい。……僕の曲に、名前をくれてありがとう」
彼は驚いた顔をして、けれどすぐに優しく笑った。
「……そっか。あのとき、そこにいてくれたんだ」
名前も知らなかった。だけど、彼の声はずっと覚えていた。
それが、始まりだった。
彼は、プロのミュージシャンというより、“まだ諦めていない人”だった。
彼女は、アイドルという衣装を着ながらも、自分の言葉で歌えないことに疲れ始めていた。
ふたりの会話は、音楽と少しの沈黙と、笑いと、たまに涙でできていた。
何度か仕事の合間に会い、カフェの片隅で音楽談義に花を咲かせ、時にはギターを片手に深夜のスタジオで音を重ねた。
ある夜、誰もいない深夜のレコーディングスタジオで、ふたりはマイクを挟んで向かい合っていた。
「……緊張して声が出ない……」
マイクの前で俯くユナに、レンはギターの弦をやさしく鳴らしながら言った。
「俺のためだけに歌ってみて。音源にならなくていい。君の声を、今、この場所でだけ聴かせて」
ユナはゆっくり目を閉じて、小さく頷いた。
その夜の録音は失敗だった。けれど、ふたりにとって一番忘れられない音の記憶になった。
「ちゃんと歌えなかったのに、忘れられない夜になった」
「それは、音が記録されなかったからかもね。だから覚えてるんだよ」
またある日、レンの誕生日が近づいていた。
ユナはこっそり手作りの小さなケーキを用意し、ノートの隅に書き溜めていた未発表の歌詞を清書して、プレゼントとして渡した。
驚いたレンがそれを読みながら、少し照れたように笑った。
「ありがとう、……ユナ」
ふいに名前を呼ばれ、ユナは一瞬だけ息を呑んだ。
「……初めて呼ばれた」
「うん。でも、もっと早く呼べばよかった。呼ばれると、なんか、ちゃんと生きてる気がするんだ」
その言葉に、ユナは自然と微笑んでいた。
「ねぇ……私も、呼んでいい?」
「うん、どうぞ」
「……レン」
その響きは、まるで楽曲のイントロのように、胸にじんわりと広がった。
雨の日だった。
撮影の帰り、ユナはひとり、駅に向かう途中の歩道で立ち尽くしていた。傘を忘れていたわけではない。けれど、差す気になれなかった。
冷たい雨粒が肩を濡らし、前髪に重さを加えていく。それでもユナは動けずにいた。
背後から駆け寄る足音がした。傘をさしていたレンだった。
「ユナ!」
呼びかけに振り向くこともできずにいると、次の瞬間、彼の腕がユナの肩を包んだ。
「どうした? 何があったの?」
言葉にならなかった。代わりに、涙がこぼれた。熱を帯びた雨粒のように、頬を伝って流れていった。
レンは何も言わず、ただユナを抱きしめ続けた。静かに、あたたかく。
やがて彼女は、彼の胸に顔をうずめたまま、かすれるように呟いた。
「……わたし、わたしじゃない誰かをずっと演じてるみたいで……もう、息ができなくなりそうで……」
レンはそっと、彼女の髪を撫でながら答えた。
「でも、君が君でいられる場所、ちゃんとあるよ。……たとえば、俺のそばとか」
ユナは小さく笑った。
その笑顔には、少しだけ“自分”が戻っていた。
こうして、ふたりは少しずつ、しかし確実に距離を縮めていった。
初めて“共作”という言葉が口にされたのは、彼女がふと口ずさんだ鼻歌に、彼がギターで伴奏をつけてくれたときだった。
そしてそれは、日常のかけらを拾い集めるような時間だった。
コンビニ帰りのメロディ、スタジオで交わした一言、深夜の電話の沈黙。すべてが音になり、歌になり、かたちになっていった。
そうして生まれたのが、《Answer / Another》だった。
ふたりのすれ違いと、それでも手を伸ばそうとした想いの結晶。
だがその歌が完成したとき、すでに世界は、ふたりに静かな圧力をかけ始めていた。
@_air_io_ 🎵『灯を探して』/ 神楽坂レン ■ 小説《Answer / Another》連動作品 ある春の日、原宿の片隅でひとりの無名のストリートミュージシャンが、偶然通りかかったひとりの少女の心に灯をともした...ふたりの物語の始まりの歌。
♬ オリジナル楽曲 - 耀羽 絵空 - 耀羽 絵空
📖第6章『告白の残響』
朝霧のような静けさが、画面越しの言葉に滲んでいた。
灯里はスマートフォンを握ったまま、背中をソファに預けていた。
奏介から届いた音声ファイルは、再生ボタンひとつを押す勇気が出ず、ただ画面にタイトルだけが表示されている。
《YUNA_private_record_1216.m4a》
録音された日付は、ユナが亡くなったその日。
「……なんで、今、これが……」
誰に問うでもない言葉が、唇から零れた。
奏介が言っていた。
このファイル、メッセージアプリの下書きフォルダにあった。音声ファイルって、本当は直接送信できないはずなのに、未送信データとしてサーバに残ってた。奇跡的に。
奇跡。
その言葉の重みが、灯里の胸に静かに沈んでいく。
灯里はそっと深呼吸をした。
まるで、静かな祈りのように、音を迎える準備をする。
意を決して再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの音が流れ、そして——
……レン、聴こえてる?
ユナの声だった。
風に吹かれるような微かな震えを含んだ声。
それでも、確かに彼女の、あの声だった。
これ……ほんとは、言うつもりなかったんだけど……やっぱり、言いたくなっちゃった。最後に、ちゃんと。……伝えたくて。
灯里の目に、自然と涙が浮かんでいた。
ユナの声が続く。
ねえ、覚えてる? あの曲……あなたが原宿で歌ってたやつ。私、ずっと聴いてたんだよ。……あの歌がなかったら、きっと私は、今ここにいなかった。
レンと出会って、あなたと曲を作れて、名前を呼び合えて……それだけで、もう十分だった。でも、私……ほんとは、もっと一緒に歌いたかった。まだ、言葉にできてないことが、いっぱいあって……
声が途切れ、少し間をおいてから、ユナのかすれた囁きが届く。
……ねえ、あの曲の続き、書いてくれるかな。ひとりでも、だれかとでもいい。……でも、できれば、わたしと一緒に、って思ってたんだ。ずっと。
あなたのそばで歌ってたいって思った。……わたし、あなたのこと、好きだったよ。
そこまでで、音声は途切れた。
灯里は胸元でスマホを握りしめたまま、目を閉じた。
深くて、優しい、最期の声。
告白は、もう返されることのない残響として、胸の奥に染み渡っていった。
その翌日、灯里はある場所に呼び出された。
カフェの奥、控えめな帽子とサングラスで現れたのは、元マネージャー・天野絢音だった。
「……やっぱり、あなたね」
絢音は苦笑して、隣の席に静かに腰を下ろした。
「……もう、全部知ってると思ってた。だけど……あの夜、スタジオに“誰かがいた”ってこと、伝えておかなくちゃって」
灯里の眉が動いた。
「誰かって……」
「私じゃない。けど、私は知ってた。止めようと思って、向かった。でも間に合わなかった」
絢音の手が震えていた。手元の小さなポーチからUSBメモリが差し出された。
「これ……ユナが最後まで手放さなかった。多分、あの子が“本当に伝えたかったこと”が詰まってる」
奏介とともにファイルを解析した結果、そこに保存されていたのは《Requiem Code》というタイトルのテキストと、いくつかの断片的な音声・画像・ログデータだった。
一見して、ユナやレンの死に直接関係するものではなかった。
だが、その中には、以下のようなファイルが含まれていた:
・某大物プロデューサーが他アーティストの未発表曲を自作として提出していたという盗作指摘レポート
・タレントとの「契約打ち切り」通知メールの写し(時刻はユナの転落と同じ深夜)
・スタジオ内の使用ログに記載のない第三者の入退室痕跡
・「レコード会社幹部→匿名アカウント」間の送信メール:『今夜、処理が必要になるかも』
「……何これ」
灯里の声が震えた。
「誰かが、何かを隠そうとしてた?」
奏介は唇を噛んでいた。
「この死は、“巻き添え”だったのかもしれない。あるいは、証拠ごと消そうとしたのか……」
「じゃあ、ユナたちは……」
言いかけた言葉の先が、重く沈黙した。
それでも、絢音は言った。
「誰が“引き金”を引いたのか、私は知らない。でも—— 止めようとして、止められなかった。私は、それを一生、忘れない」
彼女の瞳は濡れていた。
「……私は、彼女の“近くにいる責任”を、勝手に背負ったつもりでいた。でも本当は、自分を守ることばかり考えてた。マネージャーという肩書きに、甘えていたのかもしれない」
絢音は、ポーチを握る手に力を込めた。
「……昔ね、私、自分で歌ってたの。大学時代。ライブハウスで弾き語りして、夢見て……でも現実は、甘くなかった。自分の音が“届かない”って、分かってしまった瞬間があったの。……あの感覚は、忘れられない」
灯里は静かに聞き入っていた。
「だから、裏方になった。夢を託せる誰かの、そばにいる人間になろうって。でも……本当は、ただ怖かっただけかもしれない」
絢音は、ふっと笑った。
「ユナに初めて会ったとき、“この子なら、きっと届く”って思った。私ができなかったことを、この子はできるかもしれないって。……でも、私はまた何もできなかった」
沈黙。
「もう誰にも伝えないつもりだった。でも、ユナが最後に“誰かに託した”ということだけが、私を動かした」
その言葉が、灯里の胸を締めつけた。
この死は、いったい誰のせいだったのか?
もしユナとレンが“消されるべき存在”として巻き込まれたのだとしたら——
それは、あまりにも静かで、残酷な偶然だった。
📖第7章『ふたりでいるということ』
その歌詞は、ノートの最後のページにだけ綴られていた。
灯里が手にしたのは、ユナがいつも持ち歩いていたという黒い布張りのノートだった。表紙には何も書かれていない。ただ、ページをめくると、まるで呼吸をするように自然な筆跡で、幾つもの言葉が並んでいた。
その最終ページには、こう記されていた。
朝焼けの海で、もう一度だけ、一緒に歌いたい
約束の場所は、あの時の海
奏介が小さく呟いた。
「これ……ふたりの“未来”だったんだ」
灯里は頷いた。
「叶わなかった約束。でも、彼女は最後まで諦めてなかった」
「だったら、僕たちが——」
そのとき、灯里のスマートフォンが震えた。
メッセージの送り主は、MIU。
動かす準備、できてる。#AAの話、広げようか?
数日前、奏介がかつての同期であり、今はセキュリティ企業で働く“情報の魔術師”に連絡を取っていた。彼の名は三浦ミウ。大学時代は伝説的なハッカーとして名を馳せていた人物だ。
「今、この瞬間、ネットの空気を変えられるとしたら——あいつしかいないと思ったんだ」
灯里は頷き、短く返信した。
お願い。火を灯して。
その言葉のあと、彼女はひとつ、深く息を吸った。
まるで、胸の奥に小さな灯を灯すように。
その夜、SNS上で突如として《Answer / Another》という未公開楽曲の噂が再燃した。
鍵となったのは、一連の“偶然”だった。
——ユナが遺した未発表の歌詞の断片が、匿名アカウントに投稿された。
——かつてのストリートライブで《灯を探して》を聴いたというファンが、古い録音データをアップした。
——《Silent Prayer》の一節が、《Answer / Another》の歌詞と“対”になる構造を持っていたという考察が拡散された。
どれもが確証のない憶測だった。けれど、それらが“ひとつの物語”として繋がったとき、人々の心を強く揺さぶった。
ミウは言った。
「燃えるときは一気だよ。あとは、誰が“本物”を出すかだけ」
灯里は、ノートのページを撫でながら呟いた。
「……世界に、ちゃんと届くかな」
奏介は隣で言った。
「届くよ。きっと。でも、それを“どう届けるか”は、君の言葉で決めるべきだ」
灯里はしばらく黙っていた。そして、そっと目を閉じた。
自分の内にわきあがる小さな迷い——それは“語り手”であろうとする自分への不安だった。
「……ねえ、奏介。私、こんな重たいものを背負って、語っていいのかな。正直、怖いの。誰かを代弁することの責任も、覚悟も……。私で、本当にいいのかな」
その問いは、誰に向けたものでもなく、ずっと胸の奥にあった自問だった。
奏介は少し間を置いて、穏やかに答えた。
「僕はね、灯里が“語り手”だからこそ、信じられると思ってる。誰かの声をただ拡声するんじゃなくて、自分の中に受け止めたうえで、丁寧に、揺れながらでも言葉を紡ぐ人。それが、君だ」
「……そんな風に、思ってくれるんだね」
「うん。そして、ユナもきっと……“あなただから託した”って思ってるはずだよ」
ページの余白に、かすかに鉛筆の跡が残っていた。
誰かの灯になれたら、それでいい
その文字を見た瞬間、灯里の中で“灯すべき場所”が、はっきりと見えた気がした。
胸の奥で、ひとつ深呼吸する。静かな祈りのように、彼女はその言葉を受け止めた。
📖第8章『拡張される真実』
その夜から、ネットは騒然となった。
《Answer / Another》というワードが、Twitterのトレンド上位を占拠し、YouTubeでは“未公開の幻の音源”として過去のライブ映像や考察動画が雨後の筍のように投稿された。TikTokではユナの笑顔に《Silent Prayer》の音を重ねた動画がバズり、Instagramでは《灯を探して》の歌詞にハッシュタグがつけられて無数のファンの祈りが集まりはじめていた。
きっかけとなった投稿には、こう綴られていた。
《Silent Prayer》の“あなたの背中に触れた気がした”って、あれ《Answer / Another》に“似たフレーズがあるらしい”って噂、ほんと?
憶測だった。だが、誰も否定できなかった。
“これは仕組まれたアンサーソングなのではないか”
“ふたりは最後まで繋がっていたのではないか”
その仮説は、人々に許しと希望を与えた。
そして同時に、疑念を呼び起こした。
なぜ、この曲は隠されていたのか?
なぜ、ふたりは死んだのか?
「……きたな」
ミウがタブレットを操作しながら呟いた。
「ニュースサイト三つ。まとめブログ十八。大手音楽評論家がnoteで言及。あと、ラジオ局が“この件を特集する”って番組表に出してきた」
灯里は黙ってその画面を見つめていた。
「SNSだけじゃない。今度はマスも動く」
ミウの指が止まる。
「……で、問題はここ」
画面に映されたのは、某レコード会社幹部の名前と、不自然な会計記録、そして関連するメールの流出情報。
「これは……」
「《Requiem Code》の中の“契約外しの証拠”と一致してる。つまり、あのUSBには“別件”のスキャンダルが大量に詰まってたってこと」
奏介が静かに言った。
「それが暴かれると、“あの夜の誰か”が表に出てくる」
「うん。でも、《Answer / Another》まで一緒に“利用”されると……」
そのとき、灯里のスマホがバイブレーションで震えた。タイムラインには、怒涛のようにコメントが押し寄せていた。
これで救われる人もいる
なんか感動しちゃった……
でも、死者を利用してるだけじゃん
結局、話題作りでしょ?
真実とか言ってるけど、誰のための“真実”?
善意と悪意、祈りと憶測、すべてがひとつの渦になっていた。
ミウはタブレットを閉じ、肩をすくめて苦笑した。
「……だから嫌いなんだよ、善意ってやつ」
その口調には、どこか自嘲のような優しさが滲んでいた。
灯里は拳を握った。
「違う。あの曲は、誰かを告発するためのものじゃない」
「わかってる。でも、“消される前に出さなきゃ”って空気が強まってきてる」
ミウは視線を灯里に向けた。
「君が選ぶしかない。《Answer / Another》を、“証拠”として出すか、“祈り”として出すか」
灯里は答えなかった。
胸の奥に深く息を吸い込む。迷いの中で、ひとつ呼吸を整えるように。
そのとき、再び彼女のスマートフォンが震えた。
ニュース速報。
某レコード会社幹部、過去の音源盗作疑惑で謝罪。業界関係者が告発か。
《Silent Prayer》の再生数が跳ね上がる。
《Answer / Another》の名前が、ついにニュース記事に登場する。
世界は、いま確かに“ふたりの歌”を必要としていた。
でも灯里には、まだ迷いがあった。
——これは、ふたりが望んだ形だろうか?
——“真実”は誰のためにあるのだろう?
視線の先には、ユナのノートが静かに置かれていた。
最後のページに、かすかに残る鉛筆の跡。
誰かの灯になれたら、それでいい
灯里はその言葉を見つめながら、静かに目を閉じた。
静寂の中で、小さな祈りのように、彼女の胸がまた一度、深く震えた。
📖第9章『声なき声の中で』
ミウはコーヒー片手にタブレットを眺めながら、飄々と口を開いた。
「“似たようなフレーズがあったらしい”って書いただけだけど……バズったね」
灯里と奏介は、言葉を失って顔を見合わせた。
「……お前だったのか」
「“らしい”って便利な言葉でしょ? それに、誰もウソついてないよ?」
ミウの悪びれない笑顔に、灯里は思わず苦笑した。
その一方で、騒動は加速度的に広がっていた。
《Answer / Another》にはまだ誰も聴いたことのない答えがある
《Silent Prayer》はその返事だったのかもしれない
SNSでは熱狂と憶測が交錯し、ニュース番組でも連日特集が組まれるようになった。
だが、当の灯里はその熱に飲まれるどころか、むしろ距離を取るようになっていた。
街中の広告モニターにはユナとレンの映像が映し出され、彼らの名前が“物語”として消費されていく。
「これは、彼女たちが望んだ形なんだろうか……」
奏介がそっと尋ねた。
「……それでも、何も伝えなかったら、それこそ彼らがいなかったことになる」
「……わかってる。でも、《Answer / Another》は、ただの感動話に使われるために作られたんじゃない」
「じゃあ、君の言葉で“そうじゃない”って伝えればいい」
灯里は、静かに息を吐いた。
その日の夜、灯里のもとに再び絢音から連絡が入った。
ひとつだけ、ちゃんと話しておきたいことがあるの。あなたに。
カフェの奥、以前と同じ場所で、絢音は彼女を待っていた。
「ごめんなさい。……私は、ほんとうに何もできなかった」
そう前置きして、絢音は語り始めた。
「ユナは、“自分が何者か分からなくなる”って、よく言ってた。でも、レンと一緒にいるときだけは、ちゃんと笑ってた」
灯里はうなずいた。
「ふたりとも、音楽の中でしか生きられなかった。だからこそ、あの夜、何があったのか……私は知りたかった」
「それは……あなた自身のために?」
絢音は答えなかった。けれど、その沈黙が何より正直な返事だった。
しばらくして、彼女は封筒を差し出した。
「これ、彼らが最後にレコーディングしてたスタジオの使用履歴と、機材ログ。きっと、まだ“誰かの痕跡”がある」
灯里はその封筒を受け取ると、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとう。でも……それが真実でも、きっと全部は明らかにならない」
「うん。でも、声は残る。言葉は、受け取る人がいる限り、生き続けるから」
絢音の言葉は、まるで“静かな祈り”のように、灯里の胸に染み込んだ。
そして、ふっと微笑みを浮かべながら言った。
「あなたが声を継いでくれてよかった。私は……きっと、背負えなかった。あの子たちの声の重さを、本当の意味で」
灯里は、そっと視線を落とした。
「これは、彼女の声じゃない。今は……私の声」
その言葉は、自分自身にも向けた、ひとつの覚悟だった。
“声”を届けるということ。
それは、誰かを糾弾するためでも、物語として消費されるためでもない。
ただ、そこに“確かにいた”ふたりの存在を、ひとりでも多くの人の心に灯すため。
《Answer / Another》は、まだ誰も知らないまま。
けれどその“声なき声”は、世界のどこかで、確かに響き始めていた。
絢音と別れ、沈黙が流れる。
奏介が静かに灯里を見つめた。
「……ひょっとして、ふたりが探していた“あかり”って、君のことかもしれないね。」
灯里は目を伏せ、少しだけ微笑んだ。
その言葉が、胸の奥であたたかく広がっていくのを感じながら。
そっと深く息を吸い込む。
それは、灯里にとっての“Deep Breath”。そして、誰かに向けた“Silent Prayer”だった。
@_air_io_ 《Silent Prayer》─ 神楽坂レンが遺した“最後の声” レンの死後に発見された未公開デモから再構築。 誰にも気づかれないまま仕込まれたアンサーソング。 ■ 小説《Answer / Another》連動作品 #SilentPrayer #神楽坂レン
♬ オリジナル楽曲 - 耀羽 絵空 - 耀羽 絵空
📘最終章『Answer / Another』
その朝、灯里はひとりでラジオブースにいた。
通常の収録スタッフは控室に待機し、オンエアの指揮だけが別室で行われている。ここにいるのは、マイクと、灯里、そして彼女が選んだ静けさだけ。
秒読みのカウントが、ブースの隅で灯る赤いランプに重なった。
その直前——
灯里はポケットに手を差し込んだ。
そこには、小さく折りたたまれた一枚の紙。
ユナがノートの余白に書き残していた、断片的な手書きの言葉。
もしも 声が消える日が来ても わたしは あなたの中にいる
その筆跡に、灯里はそっと指先を重ねた。
一瞬だけ、手が震えた。
だが、次の瞬間——
彼女は深く、静かに息を吸い込んだ。
その呼吸はまるで、《Deep Breath》の旋律が始まる前のような、澄んだ静寂をまとっていた。
そして、オンエア。
おはようございます。灯里です。
その声は、いつものように穏やかで、けれどどこか芯のある響きを含んでいた。
今日は、少しだけ、個人的なお話をさせてください。
息を整え、マイクの先にいる“誰か”に向かって、灯里は語り始めた。
いま、この世界では、たくさんの声があふれています。ニュースの声、怒りの声、誰かを正そうとする声。でもその中に、言葉にすらならなかった、あるふたりの小さな祈りのような声がありました。
彼女は、手元のノートをめくる。
もう、彼らの声を新しく聴くことはできません。でも——彼らは、最後の瞬間まで、想いを残していきました。
灯里はマイクに近づいた。
その想いは、悲しみではなく、問いでした。どうして私たちはすれ違うのか。なぜ大切な言葉ほど、届かなくなるのか。そして、それでも声を重ねようとすることには、どんな意味があるのか——
言葉が、少しだけ震えた。
その震えを、もう一度だけ深く息を吸うことでおさめる。
それは、彼女にとっての《Silent Prayer》——静かな祈りのような決意だった。
この曲は、彼らの問いに対する、“もう一つの答え”です。
ブースの中の空気が張り詰める。
灯里は静かに告げた。
タイトルは、《Answer / Another》。
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