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大正期日煉の寸法一例

 群馬県伊勢崎市境で保存活用されている大正8年築のイギリス積み煉瓦造の倉庫を見学。前々より使用されている煉瓦が気になっていた。
使用されている煉瓦は日本煉瓦株式会社の物であり、刻印を3点確認した。

境赤レンガ倉庫のキャプションでは東寄り鉄枠扉張り出し下面の刻印のみの紹介であった。
(製免敷上)の半押し
東寄り鉄枠扉張り出し上面の半押し刻印
西寄り鉄枠扉張り出し上面の半押し刻印。かなり際どい位置に押されている。

 いずれもキッチリ打刻しない半押し刻印であった。また、判の輪郭は楕円である。以前、別の場所で明治43年頃の上敷免製を見つけた時も半押し刻印を確認している。

高崎城遺跡の煉瓦

 県内の近代遺跡の報告例として『高崎城遺跡24』(高崎市教委他 2017)がこの年代の煉瓦を詳しく報告している。当地は明治6年に東京鎮台高崎分営が設置、明治17年には歩兵第十五連隊が創設された地であり、近世・中世・奈良平安・弥生・縄文の複合遺跡である。分営時代の重病室が高崎陸軍病院として昭和20年12月まで存続しており調査対象にかかっている。ガラとしての出土であったが、第十五連隊の絵図や地図の検証より明治18年から明治23年以降の地図で病院の増築があったことが分かっている。出土した赤煉瓦は上敷免製であり2タイプの刻印が認められ、境赤レンガ倉庫同様に半押し刻印があるが高崎城遺跡24のものは東京形寸法がほとんどである。煉瓦の特徴及び製造時期から楕円形の半押し刻印は明治10年代の病院及び増築時の基礎とは考えにくい。明治30年代後半から大正期がこの刻印の特徴を有するものとすると他の建物の可能性があるかもしれない。

閑話休題

 気になるのは境赤レンガ倉庫の煉瓦のほとんどが並形寸法であるが異なるものも含まれることだった。キャプションでの紹介では223×106×56㎜であったが個人的にも測ってみた。

倉庫南面 ランダム
223×?×57
220.5×?×56
?×104×59
?×108×56
倉庫南東角 七五分ランダム
170×104×55
168×100×55
倉庫西面(妻面)ランダム
224×?×58
230×?×55
228×?×56.5
?×104×54(小口焼過)

目地は1㎝前後でまちまち

 結果、倉庫西側の妻面(東武境駅のメインストリートに面する側)の方では東京形寸法に近い薄手な煉瓦が多い傾向にある。十分に全面調べたわけでは無いので見立てが誤りであるかもしれないが長手の誤差が大きいことが言える。これを個体差と捉えるべきか…
 また、長手面はなるべく表面が瓦質の整った色の濃いものを配するようにも見られた。小口面は焼過や溶融するものも混在し、少なくとも一等級品ではないことは確か。刻印を確認した鉄枠扉下の張り出しは焼過や低い等級のものである。

半押し刻印

 まだまだ推測段階だが半押し刻印煉瓦については煉瓦の乾燥段階より低い等級品または表積用以外の用途を想定し焼成したものであったのではないか(工業製品ゆえ仕上がり次第で等級を選り分けるがそれ以前の段階での選別)。それか検品作業が忙しかった故か。
 まだまだ日煉に関しては勉強することが多いと気付かされた。考えがよりまとまり次第、ちゃんとした文章にしたい。

渋沢家所縁の神社

世良田八坂神社の境内、ローマに通じそうな煉瓦敷の参道

 境のすぐ隣に太田市にある世良田八坂神社も煉瓦の良い指標になると思う。幕末の頃に渋沢栄一の父が献額しており、煉瓦でも渋沢家の名残が見られる神社である。大正6年に日煉を始めに煉瓦関係者の献金が示される碑があり、他の碑でも大正期の日煉の献金があったことが分かる。

煉瓦関係者の碑、台座は化粧土が非常に綺麗な煉瓦かタイルが使われ、かまぼこ目地。

社殿の基礎には日煉製煉瓦が使用され、恐らく明治末から大正6年前後あたりで社殿の改修があったはずである。

社殿の煉瓦基礎
手水舎の煉瓦敷
社務所の軒下に配する異形煉瓦(役持)
七五分の煉瓦敷、〇の中に文字が入るもの、ハの字、楕円刻印等の刻印の入るものが多い。
鉄筋を通す孔がある耐震煉瓦(にごうぶ)

こちらでも楕円形の上敷免製の刻印が確認できているが半押しではなく、全体が打刻されるが判読できるほどしっかり押されていないものである。他に〇の中に文字が入る刻印やイロハのハの字の刻印が入るもの等、通常の上敷免製刻印以外のものもある。全て機械成形品。変わった煉瓦ばかりで同時期同工場の煉瓦と見ていいか不安ではある。
 上敷免工場に来た際には利根川を渡って一度来て欲しい場所である。

本殿裏にある中世の六地蔵と五輪塔のミックス。
神仏習合の時代の生き残り 




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